第56回 岸田國士戯曲賞に矢内原美邦&ミクニヤナイハラプロジェクトvol.6『幸福オンザ道路』について

第56回岸田國士戯曲賞白水社主催)の選考会が2012年3月5日(月)東京神田神保町・學士會館で行なわれ、ノゾエ征爾『○○トアル風景』、藤田貴大『かえりの合図、まってた食卓、そこ、きっと、しおふる世界。』、矢内原美邦『前向き!タイモン』が受賞作に決定した。劇作家の登竜門である同賞において3人受賞となるのは30年ぶり。
http://www.hakusuisha.co.jp/kishida/award.php
なかでも矢内原美邦はダンスを中心に異分野のアーティストが集うニブロールを主宰し振付家舞踊家として知られる。いっぽうで、個人プロジェクト「ミクニヤナイハラプロジェクト」を立ち上げ、主に演劇作品を発表してきた。上演台本が受賞作となった『前向き!タイモン』は2011年9月1日〜5日東京・こまばアゴラ劇場、2011年9月23日〜25日京都・京都府立文化会館にて上演された。シェイクスピアの「アテネのタイモン」を矢内原流に読み替え味付けした異色作。原作とは真逆の設定で矢内原いわく“不幸などん底にいる後ろ向きな男が前向きに人生を見つめなおす作品”である。
矢内原は昨年、演劇作品『前向き!タイモン』のほかニブロールによるダンス作品『THIS IS WEATHER NEWS』を東京・シアタートラムにて上演した(初演は2010年秋の「あいちトリエンナーレ2010」)。これは「人生とは天気予報のように予測がつかない、思い通りにはならない」という、誰しもが抱くような人生の不条理・絶望を痛切に感じさせる。が、最後に立ち上ってくるのは強靭なまでの生への意志。その点は『前向き!タイモン』と同様である。『前向き!タイモン』の上演に際して矢内原は“生きることのエネルギーを私は信じたいです”と語っていたが、近年の矢内原作品はどんなにシリアスな内容であっても、その底流には生への強い願望があるのは明らかだ。
イムリーなことに公演が控えている。ミクニヤナイハラプロジェクトvol.6『幸福オンザ道路』(2012年3月22日〜24日横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール)。これは一昨年7月にSTスポットで行った準備公演を経ての本公演。ビート・ジェネレーションを代表するジャック・ケルアックのカルト小説「路上」をモチーフにしたものだ。これも生と死をめぐるサスペンスである。ビルの上から何人もが同時に飛び降り自殺を起こした事件の真相が、事件に関わるさまざまの人物たちの群像劇によって明らかになっていく。
矢内原の演劇世界はハイテンションで情報量が多い。物語や意味を汲み取ろうとすると置いてきぼりをくらう。また、演者は激しく動いて叫ぶので、以前は役者が何を言っているのか意味不明な状態に陥ることも少なくなかった(無論、それは演出の意図でもあるかもしれないが)。その点、本作はサスペンス、謎解きという核があって、だからこそ、細部がより細かに見えてくる仕掛けになっていた。複線の数々や動きのディティール、台詞に秘められた寓意がつながっていき、バラバラになったパズルが鮮やかに埋まっていくような快感を味わえた。振付・動きは初期のニブロールを彷彿させるような激しいもの。役者陣も、それをこなしつつ滑舌もしっかりしていたように思う。
矢内原のダンス作品は好きなのに彼女の演劇作品を敬遠する人もいるようだ。そんな向きや今回の受賞の報を聞いて関心を持った演劇ファンにとって『幸福オンザ道路』は矢内原の演劇世界に入りっていき易い作品といえるのではないか(無論、本公演の会場となる赤レンガ倉庫はSTスポットとは比べ物にならない大きな空間であり、台本・演出も練り直してくるだろうから、印象は少なからず変わるだろうが)。いま、ノリにノッている矢内原の紡ぎだす生への飽くなきエネルギーを体感したい。

ミクニヤナイハラプロジェクトvol.6『幸福オンザ道路』
【日時】
2012年
3月22日(木)19:30 ※アフタートークあり。ゲスト:岡田利規
3月23日(金)19:30 ※アフタートークあり。ゲスト:松井みどり
3月24日(土)14:00 ※アフタートークあり。ゲスト:河井克夫
3月24日(土)18:00
【会場】
横浜赤レンガ倉庫1号館3Fホール
【作・演出・振付】
矢内原美邦
【出演】
光瀬指絵、鈴木将一朗、柴田雄平、たにぐちいくこ、NIWA、守美樹、他
【舞台美術】
細川浩伸(急な坂アトリエ)
【舞台監督】
鈴木康郎、湯山千景
【照明】
木藤歩
【宣伝美術】
石田直久
【イラスト】
アベミズキ
【企画・制作】
precog http://precog-jp.net/ja/
【主催】
ミクニヤナイハラプロジェクト
【共催】
横浜赤レンガ倉庫1号館(公益財団法人横浜市芸術文化振興財団)
【助成】
芸術文化振興基金
【後援】
神奈川新聞社tvkRFラジオ日本FMヨコハマ横浜市ケーブルテレビ協議会
【特別協力】
急な坂スタジオ
【協力】
STスポット

ミクニヤナイハラプロジェクト『幸福オンザ道路』本公演 トレイラー


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ミュージカル『ロミオ&ジュリエット』と「死のダンサー」を踊った中島周

16世紀後半から17世紀初頭にかけて活躍したウィリアム・シェイクスピアの著した戯曲「ロミオとジュリエット」はいわずと知れた名作だ。時代を超えて数々の舞台化や映画化が行われてきたけれども、フランスのジェラール・プレスギュルヴィックが2001年1月、フランス・パリのパレ・デ・コングレで初演したミュージカルは、世界的大ヒットを記録している。世界20数ケ国で上演され、全世界で500万人以上を動員したという。
わが国では、2010年に宝塚歌劇団星組が初演し、続いて雪組で上演。そして、このたび宝塚バージョンを演出した小池修一郎(ウィーン産ミュージカル「エリザベート」「モーツァルト!」等で知られるミュージカル界の重鎮)が日本オリジナル版として潤色・演出を手掛ける舞台が9月7日より赤坂ACTシアターで上演されている。振付はSMAP安室奈美恵のコンサート・ツアーの振付や新上裕也とともに手掛ける『GQ』シリーズなどで知られるTETSUHARU(増田哲治)。これがなかなかおもしろかった。
楽曲がいい。キャッチーだけれども深みがあって耳に残る。脚本も卓越している。ロミオとジュリエットの結婚を皆が知っている。ジュリエットの母が娘に出生の秘密を告白する。原作と異なるが、親に決められた相手と結婚することを強いられたジュリエットが、親との葛藤から反撥し奔放になり命を架して恋を貫く様が痛いほどに伝わってくる。
小池の潤色・演出も冴えている。ヴェローナの街を“腐食し破壊されて行く世界の中で「再生」を目指す”“再生途上の架空の街”と設定する。若い男女の身を焦がすような究極の愛の物語に秘められた、絶望のなかからの再生を描くプロセスが、今の日本のおかれた状況ともリンクしてアクチュアリティがあった。携帯電話やFaceBookといった今の時代のツールも取り込みコミカルな要素も入るが、そういった緩やかさも加え肩の力を抜いて楽しめるエンターテインメントに仕上げる絶妙のさじ加減はさすがだった。テンポよく疾走感ある展開で、あらゆるシアターダンスやストリートダンスを知り尽くしつつそれらを嫌味なく融合させて緩急自在に魅せるTETSUHARUの振付との相性もいい。美術の二村周作、衣装の岩谷俊和含め気鋭の若い感性を取り込み積極的にコラボレートしていく小池の柔軟な姿勢が舞台を深め、おもしろくしているように感じた。
ロミオ役はダブルキャスト城田優と山崎育三郎だったが山崎の日を観た。ジュリエット役はオーディションによって選ばれたようだが、昆夏美とフランク莉奈のダブル・キャストで昆の回に当たった。まっすぐで熱情的な演技の光る山崎、かわいらしく歌も上手く安定している昆には好感が持てる。さらにベンボーリオの浦井健治、キャピュレット夫人の涼風真世、キャピュレット卿の石川禅、ロレンス神父の安崎求、乳母の未来優希ら唄えて踊れるミュージカル界の一線級が脇を固める配役は万全過ぎるほどで心憎い。
そして、このミュージカルの最大の特徴であり、陰の主役といえるのが「死のダンサー」。死という、誰にも避けられない運命に翻弄されていく人々を、ときに遠くから孤絶するかのように眺め、ときにロミオやジュリエットの側に寄り添うようにして死の世界へと導いていく。一切のセリフなしに死という運命を表現し物語を彩っていかなければならない難役であろうが、それだけにダンサーにとっては踊り甲斐、演じ甲斐があろう。今回は中島周と大貫勇輔のダブル・キャストだったが中島の回を観ることができた。
中島の「死のダンサー」には、メランコリックでニヒルな色合いが常に付きまとう。ヴェローナの広場の喧騒を観おろし見渡す際の、この世とは隔絶したかのようなおぼろげで漠としてたたずむ姿のなかに、人類の悲しみ全てを抱えているかのような苦悩を秘めているかのようだ。あまり激しく踊る場はないのだが、繊細な身のこなしと磁力ある存在感で狂言回し役、いやある意味主役ともいえるような大役を手ごたえ十分にこなしていた。大規模な商業舞台でこのような大役を演じるのは初めてだが、ミュージカル畑の観客や関係者に鮮烈なインパクトをあたえることができたのではないだろうか。
中島は東京バレエ団在籍時代、モーリス・ベジャール作品を中心に活躍を見せた。目元涼しげななかにも色気と肉感性があり、身体のラインもきれい。彼が一躍大きな注目を浴びたベジャール振付『ギリシャの踊り』ソロ(東京バレエ団・2003年)では、全身からみなぎる若さと奔放なエナジーを惜しみなく振りまいて、ギリシャの陽光、地中海の潮騒が目に浮かんでくるかのようだった。決して器用なタイプではないが如何なる役に挑むときにも自らの感性のフィルターを通して演じ踊る飽くなきアーティスト魂を感じさせた。東京バレエ団公演のプログラムに紹介記事を寄稿したり、彼の『ペトルーシュカ』(フォーキン版)表題役について批評を専門紙に書く機会もあった。最注目していたバレエ・ダンサーのひとりだった。が、2009年春に東京バレエ団退団後は、あまり目立った活躍はなく、今春、ジャンルを超えたダンス界の猛者が集う痛快なステージ『GQ』で存在感を示してはいたが、ここにきて新境地を開き、一挙に再ブレイクした感がある。
いまから5年前にアート誌「プリンツ21」2006年秋号が「特集・首藤康之」を組んだ。そこに、「首藤康之に続く、次世代の表現者たち」と題する原稿を寄せ、大嶋正樹、古川和則そして中島について解説した。そこには現在バレエダンサーという枠を超え幅広く活躍する首藤のコメントも掲載されており、中島のことを“僕と一番タイプが近いダンサー”と述べている。無論、首藤は首藤、中島は中島。個性も違うし歩む道も異なって当然だ。中島にとって今回の抜擢が次なる飛躍につながることを大いに期待しよう。
なお、同公演は10月2日まで東京で上演され、10月8日〜20日までは大阪で上演される。東京公演はほぼ完売というが、当日券も立ち見券を中心に毎回でるようだ。
ミュージカル『ロミオとジュリエット』公式ホームページ
http://romeo-juliette.com/


ミュージカル「ロミオ&ジュリエット」制作発表会見


GQ Gentleman Quality 新上裕也・佐々木大・中島周よりメッセージ


prints (プリンツ) 21 2006年冬号 特集・首藤康之[雑誌]

prints (プリンツ) 21 2006年冬号 特集・首藤康之[雑誌]

松田正隆の試み

『海と日傘』『月の岬』といった名作戯曲を書いた劇作家・演出家の松田正隆(長崎出身)率いるマレビトの会では、2009年以降、原爆投下による惨禍に見舞われた長崎・広島という二つの都市をめぐる「ヒロシマナガサキ」シリーズを展開している。先日はその最新作がフェスティバル/トーキョー10の公式プログラムとして発表された。題して『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』。
今回は“「ヒロシマナガサキ」をみる視点を国外へと広げる。朝鮮半島における「もう一つのヒロシマ」と呼ばれる町「ハプチョン」に注目し、いまなお、広島での被爆者が数多く住む同地を取り上げることで、「唯一の被爆国・日本」からこぼれ落ちる「異邦性」をめぐる問題に迫る。”(F/T10公式サイトより引用)という試みがなされた。興味深いのが上演形式だ。博物館のような展覧形式と演劇が交差するものだった。池袋は自由学園明日館の講堂が会場。講堂内各所に配置されていたり動いたりするパフォーマーが、ハプチョンと広島でのフィールドワーク・取材で得たさまざまに証言等を証言者に成り代わって観る者に語ったりしていく。広島や長崎でおこったこと、その後に起こっていることをパフォーマーたちの身体を通して受け取るわけだ。その身体展示は同時多発的に各所で行われるので、何を観て何を聞くかは、観る者に委ねられる。観る者も傍観者ではいられない。歴史の重みを否が応にも引き受けなければいけないのである。
「原爆」というテーマは難物だ。ありとあらゆる芸術表現で題材として扱われてきた。「原爆を扱うと評価され易いが、それは芸術評価とは違う」といった旨をとある文学賞の選評で述べたのは筒井康隆だが、原爆をテーマにした芸術作品を評する際「貶してはならない」というようなムードが漂うこともあるのだろう。嫌味な言い方であるが「原爆を扱った芸術作品はすべて名作・秀作」説もあるとかないとか。原爆の惨禍や悲劇は重いものであるし、唯一の被爆国の人間として、そのことに関して問題意識を持つのは大切だ。いや、持つべきだといっていいかもしれない。が、やはりそれを「作品」に取り上げるには細心の注意を払わなければならないだろう。欧米でいえばホロコーストの問題もそうだろう。大上段にテーマをかざしたり、正義面して説教めいたものになったり、お涙頂戴のメロドラマになるのが大概のパターンだ。問題の矮小化につながる。
なにもこれは原爆に限らず環境問題やら社会問題を扱ったりする場合も同様といえる。そういった問題を大仰に正義面して糾弾したり、あるいはとってつけたように扱ったものが、あらゆる芸術表現に散見される。ダンスなんかでも環境問題を扱ったものは無数といっていいほど観てきたが感心させられたものはあまりない。先述したことと重なるが、そういった問題に対して意識を高くして生きることは悪いことではない。しかし、そういった問題を扱って観客にその問題の重さを実感し、共有してもらえるようにするには並大抵の手法では追いつかない。「わたし(創り手)はいかにも〜という問題について深く考えています」といった実感やら想念やら凡庸な主張を生のまま作品で開陳されても引かれるだけだ。その点、松田は、人間の身体というものを媒介に難しい主題を繊細に扱い、観る者の想像力に訴えることに成功した。この公演は今年観た舞台芸術公演のなかでも特筆すべき成果の一つであるように思う。示唆に富む試みだった。
マレビトの会「HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会」PR映像

ヤン・ファーブル、貞松・浜田バレエ団、モノクロームサーカス×服部滋樹(graf)、日本舞踊 五耀會、チェルフィッチュ

9/23(木・祝)〜25(土)までの3日間は関西・中国方面に取材出張&観劇に出ていた。改めて触れる機会もあるかもしれないので、ここでは簡単な報告のみ。
23日はまず兵庫・伊丹アイホールにてヤン・ファーブル『Another Sleepy Dusty Delta Day〜またもけだるい灰色のデルタデー』。先週「あいちトリエンナーレ2010」で3日間上演され東京からも多くの関係者やファンが足を運んだようだが、スケジュールの都合上、伊丹で観ることになった。ファーブルが最愛の母と愛する妻へのオマージュとして制作したという女性ソロ・ダンス。踊るのは日本公演に向けて新たにキャスティングされたというアルテミス・スタヴリディだった。ファーブルの信者は満足したのではないか。

NTFI ANOTHER SLEEPY DUSTY DELTA DAY

ファーブル公演終演後、尼崎のアルカイックホールへ。神戸を拠点に精力的に活動し水準の高い上演に定評ある貞松・浜田バレエ団のアルカイック定期公演第6回目となる『ドン・キホーテ』全幕を観る。キトリ役に期待のホープ廣岡奈美を抜擢。ここのバージョンは、ボリショイ経由のプティパ/ゴルスキー版をニコライ・フョードロフが改訂したもの。士気高くなかなか活気にあふれた舞台を楽しむ。

貞松・浜田バレエ団「ドン・キホーテ」DON QUIXOTE

24日は朝早くから岡山は宇野港から香川の直島にフェリーで移動、瀬戸内国際芸術祭2010へ。1日しか時間が取れないため直島のイベントや展示しか見られなかったが地中美術館はじめベネッセアートサイトや本村地区を中心に効率よく各スポットを回る。
          
          
          
お目当てはモノクロームサーカス×服部滋樹「直島劇場」。同島の本村地区をまるごと劇場化するサイトスペシフィックなダンス・パフォーマンスという触れ込みだ。診療所、古民家、桟橋というメイン会場のほか路地等で散発的にさまざまのパフォーマンスが繰り広げられた。島の日常の風景のなかにダンサーたちの身体が溶け合い、新たな光景を生み出していくのを追いかける。日常と非日常の境界が定かでなくなる。歴史ある街並み、海と緑に囲まれた豊かな自然のなかで贅沢な時間に浸りきることができた。
         
          
          
          
          
25日はマチネに大阪・難波にある松竹座にて五耀會の第4回公演を観る。日本舞踊を舞台芸術・鑑賞対象として今の観客に届けたいという想いから結成された日本舞踊界を代表する中堅実力者5人(西川箕乃助、花柳寿楽、花柳基、藤間蘭黄、山村若)による会だ。昨年の5月に同劇場で旗揚げをしており、東京での2回の公演を経ての凱旋となった。『連獅子』『瓢箪鯰(ひょうたんなまず)』『忍夜恋曲者』『七福神船出勝鬨』と古典と創作を織り交ぜた多彩かつ意欲的な構成が光る。葛西聖治(アナウンサー)の解説トークも絶妙で初心者にも優しく日舞の魅力を伝える。メンバーが語るところによると、来年5月に東京公演(2日間)が決定したとのこと。さらなる躍進に期待したい。
          
五耀會の終演後は名古屋へ急行して「あいちトリエンナーレ2010」のパフォーミングアーツ部門参加のチェルフィッチュ『私たちは無傷な他人である』。今年、2、3月に行われた『私たちは無傷な他人であるのか?』と大枠では変わらないが練り上げた新作で今回が世界初演となる。シンプルな構成、堂々巡りとも評される独特な展開のなかに「幸福ってなんだろう?」と問いかけ、現在の日本の社会の深層に潜む問題を浮き彫りにする。俳優たちが他の人物の代理として語り・動くといった手法を突き詰める。劇作家・演出家:岡田利規の、歩みを止めない、つねに先を行く創作姿勢が際立っていた。
あいちトリエンナーレ2010パフォミングアーツ作家紹介
  
久々に3日間の遠征をしたけれども、できれば26日に名古屋でのバレエ公演を観たかったし、他にも「あいちトリエンナーレ2010」関連のイベントもチェックしたかった。が、時間的・物理的理由から断念した。とはいえ、バレエ、コンテンポラリー、日舞、演劇とバラエティ豊かかつ充実した公演に相次いで接することができ有意義であった。

あいちトリエンナーレ2010、開幕!

“都市とアートが響き合う、3年に一度の国際芸術祭”として今年スタートしたあいちトリエンナーレ2010。現代美術とパフォーミングアーツを中心とした現代芸術の多様性を示す意欲的なプログラムが並んでいる。8月20日に行われた内覧会およびレセプションには出席できなかったが、会期中何度か足を運べそうなのでいろいろ見て回りたいと思う。今回は、関西への舞台観劇と併せてスケジュールを組むことができたため、いくつかのパフォーミングアーツ作品を中心に顔を出すことができた。
まず、話題は、平田オリザ+石黒浩研究室(大阪大学)によるロボット版『森の奥』世界初演だ。1990年代にブームを巻き起こした“静かな演劇”の代表的劇作家・演出家で演劇界を理論と実践の面でリードする平田オリザと、ロボット研究の第一人者として知られる石黒浩がタッグを組んで進めているという「ロボット演劇プロジェクト」の初の劇場公開作品。中央アフリカコンゴに生息する類人猿・ボノボを飼育する研究室における、ロボットと人間たちが織りなす会話劇からは、人間とサル、それにロボットにおける知能や感情の相違や生命の倫理といった問題がユーモラスかつシニカルに浮かび上がる。2台のロボットは、90分近くも動き、喋る。これはなかなか画期的なことのようだ。最近は遠ざかっていたがオリザさんの作品は細かなものまでほとんどすべて追っていた時期もあるだけに懐かしい。オリザ・ワールドを堪能できた。
あいちトリエンナーレ2010パフォミングアーツ作家紹介

今回の名古屋訪問は時間がなく、他では納屋橋会場のインスタレーション群しかチェックできなかったけれども、なかなかおもしろいものも。
振付・ダンスのほか映像・音・照明デザインまで担当する自作のヴィジュアル・パフォーマンスが世界の舞台芸術フェスティバルで好評を得ている梅田宏明が、ここでは、光とサウンドによる体験型インスタレーション『Haptic』を発表した。これは、目を閉じると瞼に映像が映しだされるという仕掛けで、昨年3月横浜赤レンガ倉庫1号館3階ホールにて行われた梅田の単独公演でプロトタイプが披露されている。そのときは映し出される映像はモノクロであったが、今回はカラー・バージョンが完成し(モノクロ版も同時公開)、音響効果もパワーアップ。2分半ほどの時間の作品であるが、映像と音の交響の刺激的な挑発に時間間隔が麻痺するような不思議な感覚を覚える。梅田は、9月の10、11日にはパフォーミングアーツ部門の劇場公演にも登場する。ラップトップ1台(作品によっては2台らしいが)を携え、世界中を相手にクールに活躍する梅田は新世代のヒーローといえる。頼もしい限りだ。

Adapting for distortion - Hiroaki Umeda

体験型のインスタレーションということでいえば、同会場でレアなものを体験できた。ボリス・シャルマッツによる『héâtre-élévision』(体験型映像インスタレーション)は、一時間に1名、一日七回ほどの上演と限られているもの(予約制)。ネタバレは避けたいので詳しいことはいえないが、本当に観客は一名だけで体験・体感するアート作品だ。コンセプト性の強いものであるが、観客自身が体験することで、はじめて完成するというあたりの仕掛けが心憎く、一本取られたという印象。10月31日までの会期中上演されるので、鑑賞予定者は早めに予約をすることをお薦めしたい(入場料:1,000)。

Boris Charmatz

こまばアゴラ劇場の新フェスティバルの名称決定&ディレクターに矢内原美邦が就任

こまばアゴラ劇場では、これまで「大世紀末演劇展」「サミット」というフェスティバルを催して若手劇団や首都圏外の劇団を紹介するなど演劇界の活性化を促してきた。そして2011年からの展開にあたって、「Performing Arts Network」の頭文字でもある「PAN」に、「広く行き渡る」という意味を持つ漢字「汎」を当て、新フェスティバルのタイトルを決定した。その名は サマーフェスティバル〈汎-PAN-〉
新フェスティバルの新タイトル・ディレクターが以下の通り決定いたしましたhttp://www.agora-summit.com/new-Fes/
演劇展からディレクター制度を採用したダンスやパフォーマンスも取り入れたフェスティバルへと進化してきたが、劇場同士のネットワークを大切にし、「繋がり広がっていく」新しいフェスティバルの形を打ち出していく。これまでは夏・冬それぞれ一月ほど行われてきたが、夏に一月半ほどの集中上演となるようだ。新展開に期待したい。
新フェスティバルのディレクターには矢内原美邦が就任する。矢内原は、ディレクター・システムによるパフォーミングアーツ集団・ニブロールを主宰してダンス界に旋風を巻き起こしつつ、個人プロジェクト・ミクニヤナイハラプロジェクトでは自ら作・演出を手掛ける演劇作品を発表して演劇界でも注目を集める存在。今回から、「ディレクターによる作品の上演」も必ず行われるようになり、ディレクターの嗜好やセレクションの方向性がより明確に発揮されるのが特徴となろう。演劇・ダンス・パフォーマンスの境界を軽やかに行き来する尖鋭・矢内原のディレクションがどのようなものになるのか注目される。
nibroll " coffee"

5人姉妹2009 MIKUNI YANIHARA Project -5 sisters -

維新派『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』&東野祥子『私はそそられる―Inside Woman』

野外での充実した舞台を続けてみた(「清里フィールドバレエ」については既報)。

ひとつは岡山県は瀬戸内海の犬島で行われた維新派公演『台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき』(7月24日観劇)。岡山駅からバスに乗り、新岡山港からフェリーで移動して島に向かう。2002年の維新派公演以来8年ぶりに訪れた犬島は懐かしかった。港や会場の銅精錬所跡地の周辺は多少整備されて小奇麗になっていたが、海、潮風、緑に包まれたロケーションは変わらず、すばらしい。近隣の島も含めてのアートフェスティバルなども盛んになってきているようだ。

さて、舞台である。今回は〈彼〉と旅をする20世紀三部作#3ということでシリーズの総括的意味合いがあるのだろう。南米、東欧を経て舞台はアジアとなる。昨秋、フェスティバル/トーキョーで上演された『ろじ式』のテーマや舞台意匠も組み込まれているようだ。日本が大東亜戦争で目指した帝国支配の果ての喪失感のようなものが浮かび上がる。8年前に犬島で上演された『カンカラ』や一昨年、琵琶湖湖畔の水上舞台で発表した『呼吸機械』のような近年の代表作に顕著であった大阪弁ラップやダンサブルなパフォーマンスは影をひそめ、近年の松本雄吉の作品としては物語性が強くメッセージを明確に打ち出しているのに誰しもが驚いたことだろう。三部作完結後、松本と維新派の劇世界はどこへ向かうのだろうか。

維新派恒例の屋台村も堪能した。土手煮、鳥焼きやタイ風ラーメンにビール、泡盛の水割り。充実したパフォーマンスの後は料理も酒も旨い。東京や関西の劇場でもよく顔を合わせる知人や評論家諸氏とも普段以上に楽しく会話を交せた。皆、基本的にプライベートなモードなのだ。深夜22:30に犬島から新岡山港へと船で帰ったが、松本さん含めた維新派のメンバーが、岸壁から離れていく船に向かって手を振って見送ってくれる。維新派を見るということは、単に舞台を鑑賞するというだけではない。特別な得難い「体験」である。維新派鑑賞歴はまだ10年ほどと浅いので偉そうなことは言えないが毎回そう強く思わされる。
維新派 - ishinha - 《彼》と旅をする20世紀三部作#3 プロモーション映像
ふたつ目は、世田谷美術館の企画による野外パフォーマンス「INSIDE/OUT 2010」として行われた東野祥子ロダンス『私はそそられる―Inside Woman』(7月31日 観劇)。会場は砧・世田谷美術館にあるくぬぎ広場。「そそられる」シチュエーションだ。
19:20頃であろうか、日没とともに始まったパフォーマンスは、大きなくぬぎの木のぐるりや映像の映し出される美術館の回廊を背に行われる。2008年1月に大阪で初演されたBABY-Qによるグループワーク『私はそそられる』(観に行った)をソロとして大幅に改定した実質新作といえるもの。東野一流の、アングラチックでダークな世界観に支配されてはいるが、ここではどことなく軽快な浮遊感のようなものも感じる。キョンシーみたいな振りで踊るところとかもあって楽しい。四角錐状の赤のテント小屋に何度か出ては入っては出てくるのも妙に面白い。欲望の象徴みたいなものらしい。欲望の館?カジワラトシオによるライブ演奏にアフタートークのゲストで呼ばれていたミュージシャン・作家の中原昌也が飛び入りで参加するというサプライズもあって楽しめた。
今年の東野は3月にソロ『VACUUM ZONE』を、7月頭にはカジワラとの共同作業『UNTITLED RITUALS NO.1 - NO.5』を発表している。前者では小ホールでオブジェ等の効果も含めて緻密に作りこんだ完成度の高い舞台を見せ、後者では、地下の小空間において音楽とのスリリングなセッションを見せていた。今回も野外とはいえ映像や音楽や美術へのこだわりは半端ではないが、前記の2作よりも野外の特性を活かして、のびやかに空間に息づいて踊っている。このところ東野の舞台に顕著な、ダンスを軸としながらも美的な構築力際立つ仕上がりとは趣を異にしている。何よりもダンサーとしてのイマジネーションが横溢し、場の魅力と溶けあいつつダンスによって状況を打開していくという、東野の踊り手としての無尽蔵といえる想像力の豊かさを実感できた。同時代に生きることを至福に思える刺激的で目が離せないアーティストである。
BABY-Q[私はそそられる]