ミクニヤナイハラプロジェクトvol.5 『幸福オンザ道路』

ディレクター制によるアート集団であるニブロールを主宰する矢内原美邦が主に「演劇」を上演するために立ち上げたのがミクニヤナイハラプロジェクト。ただ、そこで上演されるものは、常識的な意味での演劇とは趣を異にする。何を喋っているのかわからぬ位に演者が早口で台詞をまくし立てたり、叫ぶ。同時にダンスようなあるいはダンスらしからぬような動きで小空間を所狭しと走り回わったりする。言葉と身体(それに高橋啓祐の映像)がぶつかり、交錯して展開していくめくるめくような疾走感が特徴だ。
ただ賛否両論ある。意味や物語を読み取ろうとする観客は、ハイテンションで情報量の多い矢内原ワールドに置いてけぼりを喰らうことになる。物語性やドラマツルギーで考えると破綻はあるという指摘もなくはない。また、演者は激しく動いて叫ぶので、何を言っているのか意味不明な状態に陥ることも少なくなかった。無論、それは演出の意図でもあるかもしれないが、ときに最小限伝えるべき情報すら伝わらず、矢内原の表現したいものが見え難くくなり、困惑させられていたのも事実だった。身体訓練や発声法等のメソッドを確立していくべきという意見ももっともな面もあった。
今回の『幸福オンザ道路』(7/11まで上演中@STスポット)では、そういった課題や批判に対して矢内原が意識して対処したのかどうかは分からないが、結果として課題をクリアし、さらにその劇世界の奥行きを増すことに成功しつつあるように感じた。
今作は、ビート・ジェネレーションを代表するジャック・ケルアックのカルト小説「路上」をモチーフにしているが、謎解き、サスペンスの要素を取り入れたのが大きい。ビルの上から何人もが同時に飛び降り自殺を起こした事件の真相が、事件に関わるさまざまの人物たち――天才女性外科医や喫茶店のマスターやネタバレになるので書けないがある特殊な設定の男たちの群像劇によって明らかになっていく。これまでの諸作に比べ、ストーリーというか展開は「分かる」。だから、矢内原流「演劇」を敬遠する人でも、多少は拒否反応は少ないかも。無論、「分かる」ことが重要ではない。ただ、サスペンス、謎解きという核があって、だからこそ、細部がより細かに見えてきた。複線の数々や動きのディティール、台詞に秘められた寓意や切実さといった細部の数々がつながっていき、バラバラになったパズルが鮮やかに埋まっていくような快感を味わえた。
演者に関しても、矢内原組初参加となる、いま東京の気鋭劇団のコアメンバーとなっている個性派にして実力ある人が揃う。激しく動いても、口跡・発声は確かなもので、ダンスというか動きに関しても、いわゆるダンサーとは違った癖はない。それでいて鍛えられた身体感覚と豊富なスタミナを有している。近年のニブロール作品や今年3月の矢内原美邦ダンス公演と銘打たれた『あーなったら、こうならない。』では、以前に比べて「踊れる」ダンサーを使うようになってきた。それにはさまざまの意図や必然があるのだろうが、ダンサーでない人々を多用した初期の頃に比べ角が取れている印象もあった。今回、久々にエネルギッシュな矢内原振付を見ることができたのも新鮮だった。
サスペンスを織り交ぜ劇世界にしっかりした構造を持ち込んだこと、より練度の高い演者の表現力を活かしたこと、以上、2点によって、これまでの矢内原の演劇作品において舌足らずだった部分が補われ、疾走感・エッジーな感性はそのままに、その劇世界は大きく飛躍と遂げつつあると感じた。とはいえ、以前からの長所は変わらない。理知的な面もあるが台詞の一つひとつが生きた身体を通して出てきた言葉であり、かつて野田秀樹松尾スズキを「身体で書く作家」と評したが、矢内原もそうだと思う。今回の戯曲が物販に出ていなかったのは残念だったが劇作家としても注目される。
ただ、気になるのは、配られたノートに書かれた3月の本公演に向けて完成度を高めていきたいという風なことがかかれていたこと。完成とは何を指すのかがいまいちよく分からない。戯曲の手直しとかのレベルのことなのだろうか。ミクニヤナイハラプロジェクトでは、劇場での本公演の前に小スペースで準備公演を行うのが通例になっている。コアなファンの間では、本公演よりも準備公演でのパフォーマンスのほうが不定形なおもしろさがあるとの声もあるようだが、実際、横長でフラットな小空間での今回のパフォーマンスの異様なまでの迫力・緊密感は捨て難い。個人的には矢内原作品では2002年、麻布のデラックスという倉庫で上演された『コーヒー』を観たとき以来の興奮を感じた。今作が横浜赤レンガ倉庫1号館でどのよう上演されるのかちょっと想像がつかない。空間によって演出を変えてはくるだろうが、今回を上回るパフォーマンスが実現するのか興味深いところ。演出家としての矢内原の腕が問われてこよう。
『幸福オンザ道路』矢内原美邦 突撃インタビュー!


オン・ザ・ロード (河出文庫)

オン・ザ・ロード (河出文庫)

チェルフィチュ公演をめぐっての緊急シンポジウム

現在、ラフォーレミュージアム原宿にて上演されてる(19日まで)チェルフィッチュ公演『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』を話題の出発点に、気鋭のライターたちが現代のアートと社会をめぐって語り合うというシンポジウムに足を運んだ。
夜更けの開催であり、終電までのコアタイム中心にしか聴けなかったが、なかなか刺激的なイベント。まず、各パネラーが非正規雇用の若者たちを描いた同作を観て感じること・思うことを述べた。絶賛派もいれば否定派というか同作に不満・疑念を持つパネラーも。チェルフィチュ/岡田利規の演劇論・身体論をあらためて解きほぐしつつ、岡田が、どのように社会と向き合っているのかとの議論等がなされた。パネラーのひとり黒瀬陽平が主に関わっている「破滅ラウンジ」や宮下公園における「NIKEパーク化問題」に関するアート活動といったいま渋谷・原宿で行われているイベント・パフォーマンスとの共時性・同時代性も語られた。収集のつかない・堂々巡りな展開に感じられた場面もなくはなかったが、アート、表現活動の現在を知るうえで示唆に富むものだった。
シンポジウムでは、2〜3月に上演された『わたしたちは無傷な別人であるのか?』と『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』の関連性や相違も語られた(創作順では逆になる)。『わたしたちは無傷な別人であるのか?』は、練り上げられて『わたしたちは無傷な別人である』と題し愛知トリエンナーレにて世界初演されるようだ。その前後には『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』や『三月の5日間』の海外ツアーも予定されている。チェルフィッチュが世界規模でパフォーミングアーツ界の話題を振りまいているその理由とは何か?もっと語られ、分析されていいことであろう。

緊急シンポジウム!現代の表現と社会との関係を考える(その1)〜『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』公演の最中に〜
ただいまラフォーレ原宿で開催中のチェルフィッチュ公演『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』を観た、世代もジャンルも様々な批評家・ライターを交えて、演劇に限らず現代の表現と社会の関係を探る緊急公開シンポジウムを開催します。
ぜひお立ち会い下さい。

●パネラー
磯部涼(風俗ライター)
鴻英良(演劇批評家・ロシア芸術思想)
九龍ジョー(ライター/編集者)
黒瀬陽平(美術家/美術批評家)
五所純子(文筆家)
桜井圭介(音楽家/ダンス批評家/吾妻橋ダンスクロッシング主宰)
杉田俊介(ケア労働者、批評家)

●開催日:5/14(金)22:00〜
コアタイムは終電までを予定しますが、議論の流れ次第でその後も続きます)

●会場:VACANT
●参加料:1000円+1ドリンクオーダー
※当日券のみ(定員100名、先着順)

チェルフィッチュ『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』初日

演劇とダンスの境界を自在に往還して注目を浴びるチェルフィッチュ。最新作『ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』は、HAU劇場(ベルリン)との共同制作によって2009年10月に世界初演され、5月7日から19日までの東京公演@ラフォーレミュージアム原宿を皮切りに、今年国内外10都市のツアーが行われる。「ホットペッパー」「クーラー」「お別れの挨拶」の3つの短編による構成。「TOYOTA CHOREOGRAPHY AWARD 2005〜次代を担う振付家の発掘〜」最終選考会にノミネートされ、演劇なのかダンスなのかと物議をかもした『クーラー』を挟んで二つの短編を加えたものだ。
初日を観てきたが、期待に違わぬおもしろさ。反復されるテクスト、得体の知れない身体動作といったものを通して、若い世代の労働環境をシニカルに描かれており、独特の不思議なアクチュアリティがある。厳しい労働環境に「明日はわが身」と若い世代は身につまされるかもしれないが、妙な浮遊感というかシュールな感覚があって後味は悪くない。前衛音楽、フリージャズといった音楽の使い方も大胆で新鮮。強いて気になるといえば、『クーラー』を先に観ている人間からすれば前後の繋がりが「なるほど、そう来るか!」と思え楽しかったが、『クーラー』未見の人の場合、前後とやや造りが異なる印象を受け戸惑うかもしれない。でも、才人・岡田利規のこと、折り込み済みだろう。
1990年代以降の「静かな演劇」的なリアリズムとは違うアクチュアルなテイストの表現の第一人者として岡田は注目されてきた。個人的には岸田國士戯曲賞賞受賞前に手塚夏子とともに渋谷ギャラリー・ルデコで公演を行ったとき以来、大半の作品をフォローしている。今作は、『三月の5日間』『エンジョイ』といった旧作を受け継ぎつつより軽やかに、それでいてより深く、怜悧に、いまという時代を生きる人間の寄る辺なさを見据えていると感じた。今後のさらなる展開を予感させる刺激的な一作だと思う。
チェルフィッチュホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』

制作:precogのチャンネルより
ホットペッパー、クーラー、そしてお別れの挨拶』も収録した戯曲集

エンジョイ・アワー・フリータイム

エンジョイ・アワー・フリータイム

長谷川寧の打ち出す越境という試み〜[EKKKYO-!]

[EKKKYO-!](1月14日〜17日 東京芸術劇場小ホール1)という催しを観ました。冨士山アネットのproduce公演。これは、演劇やダンス、パフォーマンスといった枠を超えて、いま、注目されるエッジーな団体やアーティストを企画・構成の長谷川寧みずからセレクトして並べたイベントです。一昨年の9月、下北沢ザ・スズナリでの公演に告ぐ第二回目。前回は、業界ネタや紙芝居コントで笑わせてくれた夙川アトムや「妙ージカル」を標榜した異色パフォーマンスを行うFUKAIPRODUCE羽衣、ポスト・チェルフィッチュの代表格といえる演劇制作チーム快快(faifai)らの登場もあって盛り上がりました。
今回の出演は、モモンガ・コンプレックス、ライン京急、ままごと、CASTAYA Project、岡崎藝術座、冨士山アネットという6組。ダンスありマイクパフォーマンスありネタバレ厳禁の仕掛けものありと総じて楽しめました(すべてが好みというわけではなかったですが・・・)。演劇、ダンスといった枠を越え内外で積極的に活動している冨士山アネットのプロデュース企画ですが、主宰の長谷川自身が興味を持ち、自身の創作とも重なる“ボーダレスな感覚”を持っていると感じているものを集めたブレない姿勢は頼もしい。
コンテンポラリー・ダンス界ではコンペティションが減少したり、かつてとは方向性の違う性質のものに変容しています。演劇界では若手を紹介・育成するフェスティバル等が減ってしまいました。劇場やプロデューサー主導によるショーケースのようなものはあるにはありますが、アーティスト側が観客に活きのいいパフォーマンスを披露し、新たな出会いが可能になる場を生み出しているのは新鮮です。ジャンルにとらわれない越境する表現を気負わずに楽しめる場を提供する長谷川のフットワークの良さと発信力は注目されていいでしょう。厳しい御時世だからこそ、出会いや活動の場は自分たちで探し、求めていかなければいけないのも事実。楽しくも示唆に富むイベントでした。

ウィーン産ミュージカル『ダンス オブ ヴァンパイア』

7月4日からミュージカル『ダンス オブ ヴァンパイア』が上演されています(帝国劇場で八月末まで上演)。脚本・歌詞を空前の大ヒット作『エリザベート』のミヒャエル・クンツェが担当したウィーン産ミュージカル。原作は「チャイナタウン」「テス」「戦場のピアニスト」を撮った名匠ロマン・ポランスキー監督の映画「吸血鬼」(1967年)で、ウィーン初演(1997年)ではポランスキーが演出を手がけています。日本では東宝が2006年夏に初演、尻上がりに人気が出て大きな話題となりました。今回3年ぶりの再演です。
舞台は十九世紀、ルーマニアトランシルバニア地方。彼の地の寒村や古城を舞台にしたホラー・コメディであり、ヴァンパイアハンターのアブロンシウスウス教授と若き助手アルフレートの冒険を軸に描かれます。文明を叡智で救う正義漢のアブロンシウス教授とクロロック伯爵=ヴァンパイアとの対決、アルフレートと宿屋の娘サラとの恋。教授と助手は果たしてヴァンパイアの恐怖に立ち向かい勝利を収めることができるのか…。
このミュージカルはダンス的要素が満載。ヴァンパイアたちによる群舞が何度も出てきます。1980年代は『レ・ミゼラブル』をはじめとした歌唱中心のミュージカルが世界を席巻しましたが、近年、日本では劇団四季が上演した『コンタクト』(2000年/スーザン・ストローマン演出・振付)あたりからダンスが存在感を示すミュージカルが息を吹き返したのは周知の通り。『ダンス オブ ヴァンパイア』もその流れのなかで捉えられるでしょう。本公演のプログラムに演劇・舞踊ジャーナリストの岩城京子さんがそのあたりを深く考察された一文が載っているので詳しくはそちらを参照いただければと思います。
ダンス オブ ヴァンパイア』日本版振付は上島雪夫。退廃美世界を表現するのを得意とし、商業舞台の振付・演出のかたわらコンテンポラリー系の公演でも作品発表しています。ヴァンパイア・ダンサー=伯爵の化身は前回に引き続いての新上裕也と今回新たに挑む森山開次というダブルキャスト。ジャンル問わず精力的に活動する異能の踊り手たちです。群舞のダンサーたちもショーイベントやモダン、コンテンポラリーなど幅広い舞台を経験している実力者揃い。アートシーン、ショービジネスといった壁を越えて積極的に踊るダンサーたちの活動に一層光が当るようになってほしいところです。

ミクニヤナイハラプロジェクトvol.4『五人姉妹』

ダンス・映像・音楽・衣装等のディレクターが集うニブロールを主宰する振付家/ダンサーの矢内原美邦。同時に彼女は、映像の高橋啓祐とのユニットoff nibrollミクニヤナイハラプロジェクトといったユニットを結成し個人での表現活動にも意欲的です。矢内原が同時代のアーティストのなかで抜きん出ているのは、飽くなき表現への欲求、表現せずにはいられない語るべき何かを持ってひた走っている点ではないでしょうか。
個人プロジェクトであるミクニヤナイハラプロジェクトでは、おもに演劇作品を上演してきました(『3年2組』と『青ノ鳥』、後者の上演台本にて岸田國士戯曲賞最終選考にノミネート)。でも、それらは常識的な意味での演劇とは趣を異にします。演者が何を喋っているのかわからぬ位に早口で台詞をまくし立てる。台詞を話す際ダンスのような動きがあってハイテンションに動く。展開に脈絡なく、物語を追おうとすれば、混乱してしまう。言葉と身体がぶつかり転がっていく、めくるめくスピード感が特徴です。そこに映像や音楽も絡み情報量は膨大なものに。矢内原の“演劇”作品を観るに際し、意味や物語に足を引っ張られると、置いてけぼりをくらい、混沌の海を漂流することになります。
プロジェクトの新作『五人姉妹』も演劇作品。矢内原はニューヨークでチェーホフの『三人姉妹』を観劇、感銘を受けたことから戯曲執筆を思い立ったとか(結果的にチェーホフの影響はほとんどみられませんが…)。“五人姉妹の持つ習慣性”が主題らしく、母を亡くし執事ひとりを雇って暮らす姉妹たちが描かれます。登場人物は、過眠症や引きこもりといった何かしらの障がいや欠落を持っている。彼らはほとんど間断なく話し、動き回ります。早口で滑舌いいとはいえません。しかし、言葉に思いをこめて話し動くことによって感情の振幅が痛いほどに伝わってきます。なるほどやや過剰な芝居かもしれません。でも、観終わったあと、逆にこう思います。「ナチュラルな演技って何?」と。
ダンス畑の矢内原の創った“演劇”のため、戯曲や役者の発声といった面に関して色眼鏡でみる向きもあるかもしれませんが他の要素も見てみましょう。まずは振付。役者が言葉を発する際に生まれる感情の揺らぎを自在に動きとして定着させます。日常的な動きも取り入れつつテンション高く激しいという、矢内原一流のもの。役者の素の身体、上手く踊ろうとする嘘のある身体ではないからこそ可能なのでしょう。スタッフも今回、映像の高橋は別にして、音楽は中原昌也、衣装はスズキタカユキという、普段のニブロールとは違う新たなスタッフを起用しました。中原は1曲だけの提供でしたが、印象に残る使われ方。スズキの衣装は、白黒基調にじょじょに変化をつけるもので、演出と密接に関わっていました。「ニブロールから離れ、矢内原のやりたいようにやる」というプロジェクトの主旨が活かされ、実際に効果を生んでいたように思います。
矢内原の“演劇”作品は、通常の意味での物語性やドラマツルギーからすれば破綻はあるかもしれません。でも、それを補って余りある魅力もある。ただ、アフタートークの際、劇作家の宮沢章夫も指摘したように、矢内原のプランを舞台に余すことなく定着させるには、身体訓練や発声法等のメソッドを確立していく必要があるかもしれません。そうすれば、伝えたいことと、観るものの想像力に働きかけたいことが明瞭になり、より奥行きと訴求力ある矢内原ワールドがみられるのでは。新展開が楽しみです。

ミクニヤナイハラプロジェクト vol.4
『五人姉妹』本公演

作・演出・振付:矢内原美邦
音楽:中原昌也
衣装:スズキタカユキ
出演:稲毛礼子/笠木 泉/高山玲子/三坂知絵子/光瀬指絵/山本圭
(6月25日〜28日 吉祥寺シアター 25日所見)

「15 MINUTES MADE VOLUME 5」

Mrs.fictions presents「15 MINUTES MADE VOLUME 5」
●Mrs.fictions『松任谷由実物語』
●The end of company ジエン社『私たちの考えた終わる会社の終り』
●MOKK『case_1』
●青☆組『恋女房』
●東京ネジ『再会(夏目漱石夢十夜」第一夜より)』
●DULL-COLORED POP『15分しかないの』

(2009年3月12日 シアターグリーン BOX in BOX THEATRE)

6つの団体が15分ずつの短編作品を上演する『15 MINUTES MADE』。舞台制作者集団Mrs.fictionsの企画であり、新進気鋭のカンパニーが集うショーケースとして興味深い。青☆組は青年団リンクとしても活動、大雑把にいえば平田オリザ的静かな演劇路線だが日常の中の非日常を繊細に掬い上げる手腕が見事。15分ながら完成度の高い芝居をみせてくれた。主催者のMrs.fictions の作品は小劇場演劇ならではの笑いに満ちたものだが人物間の関係をしっかり描いている。演劇畑の居並ぶなか唯一ダンスから参加した村本すみれ率いるMOKKは劇場ではない空間にこだわって刺激的なパフォーマンスを繰り広げる注目の団体。今回はこの集団にしては制約のある条件での公演であったが様々の挑戦をすることによって今後より魅力的な舞台を生ん出でくれることだろう。次回は4月にギャラリーでのパフォーマンスとのこと。楽しみにしたい。近年、不況もあって若手の登竜門的な演劇フェスティバル等は減少の傾向。若い団体同士が手に手を携えて多くの観客との出会いを求める姿勢には大いに共感させられた。