茨木のり子とダンス〜小尻健太、佐多達枝、池上直子

新潟で行われたNoism2(研修生カンパニー)春の定期公演2011を観てきた。金森穣振付レパートリーから『1/60』(2000年)、『Heavy Ballerina』(2005年『NINA-物質化する生け贄』より)抜粋のほか、元NDT1の小尻健太の『Inscription』を上演した。
小尻作品は、言葉や音楽と動きの関係性を突き詰めつつ若い踊り手に潜在する能力を引き出そうとするものだった。詩や歌詞からの引用が用いられており、椎名林檎山口小夜子、趙昌仁らの言葉が取り上げられている。そのなかでも印象に残ったもののひとつが、詩人・茨木のり子(1926〜2006)の「自分の感受性くらい 自分で守れよ ばかものよ」だった。これは、叙情派詩人の代表たる茨城の代表的な詩集のひとつ『自分の感受性』からの引用だ。小尻は、若い踊り手たちと向き合い、彼らの過去と未来のはざまで去来する不安や期待で揺れ動く「いま」を鮮烈に刻印したが、厳しさのなかに読むものを愛で包む茨木の詩は小尻の創作の大きなモチーフになったのだろう。


自分の感受性くらい

自分の感受性くらい

茨木の詩に触発されたダンス作品に接する機会は近年他にもあった。
わが国の創作バレエの大家にして衰えを知らぬどころか年々尖鋭さを増した創作を行っている佐多達枝が2007年のリサイタルで発表した『わたしが一番きれいだったとき』は傑作だった。同題詩は多くのの国語教科書にも掲載されている茨城の代表作のひとつだが、佐多はこれをモチーフに高部尚子のソロとして振付けた。この作品は、2009年秋に行われたシンポジウム、ダンス=人間史vol. 21「トリップ! 佐多達枝バレエ・ ワールドヘ」のなかで舞踊批評の門行人が指摘していたように、バレエのパが消え、不定形の動きだけで成立している。確かに、バレエではないしモダンといえばいいのかコンテンポラリーといえばいいのかよくわからない感触のある振付だ。高部が白のベッドのような台の上でひたすら踊り続ける。舞台奥の幕の先には、緑の庭園がのぞき見える。過去への追憶と悲しみのなかにひとりの女性の背負ってきた人生の重みが立ち上がってくるとともに、なんともいえぬ安らぎというかピュアな美しさにも包まれる。


2010年夏に行われた池上直子のソロダンス『花ゲリラ』も茨城の詩に想を得たものだった。池上は、現代舞踊界の実力者のひとり本間祥公率いるダンスエテルノはじめ多くの振付家の下で活躍した才色兼備の踊り手。『花ゲリラ』は本間の下から独立して「ダンスマルシェ」というユニットを立ち上げた旗揚げ公演だった。ヴァイオリニスト・廣川抄子と組んでのソロで、さまざまの感情の揺らぎを繊細かつドラマティックに描き出した。自身の新たな旅立ちともリンクするような内容で、池上の決意表明とも取れる舞台だったと私は思っている。続いて昨秋にはダンスマルシェ第2回公演として、音楽・作曲・ピアノに阿部篤志を迎え、美踊、蛯子奈緒美という俊英ダンサーとともに『moondial〜月と会話〜』というセンスいい秀作を発表。今年1月からはレクサスCT200hウェブCMイメージダンサーとして抜擢された。楽しみな踊り手・創り手のひとりである。
contemporary dance 「moondial~月と会話」 ダイジェスト