バッハ音楽と舞踊

先日、佐多達枝演出・振付の合唱舞踊劇『ヨハネ受難曲』が上演されました。「ヨハネ受難曲」はイエスの受難を描くJ.S.バッハ(1685〜1750)の大曲。舞踊と合唱と管弦楽を融合させるO.F.Cの集大成でした。佐多と台本の河内連太は、ときに曲想から離れつつも人間の愚かさ弱さを怜悧に見据え、そして、そのすべてを力強く大らかに肯定します。バッハ音楽に通じた声楽家、選り抜きのダンサーたちに加えときに踊りもする合唱隊の動きも躍動に満ち、スケール大きく感動的な舞台に仕上がっていました。
ヨハネ受難曲』公演プログラムによると、佐多さんの一番好きな作曲家はバッハとのこと。近代音楽の父といわれるバッハは、オペラ以外のあらゆるジャンルの曲を書き遺しており、現代の振付家に大きな影響を与えています。このところの話題の舞踊公演を振り返ってみても、バッハの曲が印象的に使われたものは少なくありません。
6月上演のNoism09『ZONE〜陽炎 稲妻 水の月』は、金森穣が専門的な身体にこだわり創作した三部からなる作品。最初のパートは「academic」と題され、群舞や金森&関佐和子のデュオが展開されます。バレエ基本に精度の高い動きで観るものを圧倒しました。そこに使われたのがバッハ「無伴奏ヴァイオリン・パルティータ」。古典的な身体トレーニングを経たうえでのコンテンポラリーな身体の有り様を表現するに際し、古典的なバッハのヴァイオリン曲を選んだ点に、金森のセンスと意気込みがうかがえます。
この4月に行われた 東京バレエ団「創立45周年スペシャル・プロ」では、18年ぶりに再演されたジョン・ノイマイヤー振付『月に寄せる七つの俳句』が話題に。芭蕉や一茶の句を配しつつノイマイヤー一流の審美世界が繰り広げられました。そこに使われた曲がバッハと現代音楽家アルヴォ・ペルトのものです。芭蕉と同時代に生きて同じ月を見ていたという発想からバッハを用いたのはいまや有名なエピソード。俳句という文学的主題を扱うも叙情に流されずダンサーの身体から豊かなイメージが立ち上がる傑作であり、バッハの音楽ががそれに大きく寄与しているのは明らかです。
また、先日発表されたニムラ舞踊賞の受賞者は笠井叡でしたが、主な授賞対象となったのが昨年上演されたピアニスト高橋悠治とのコラボレーション『透明迷宮』。バッハ未完の遺作「フーガの技法」を笠井のソロ、群舞、オイリュトミーと3つの違った作品に仕上げて一挙上演しました。「フーガの技法」は、単純な主題が様々に変奏・反復されていく「対位法」を用いることにより緊密かつ豊穣な音楽世界を構築したバッハの代表作のひとつ。笠井は多彩なヴァリエーションを用い同曲に挑み成果を挙げていました。
バッハといえば、モーツァアルトやベートーヴェンシューマンやリストといった音楽家ゲーテヘーゲルといった文学者・哲学者にも影響を与えました。現在ベストセラーの村上春樹「1Q84」はふたつの物語が交互に48章にわたって連なる構成ですが、村上も明言するようにバッハ「平均律クラヴィーア曲集」を模しています。対位法に代表される、構造への高い意識や完璧なまでの美的完成度を誇る世界はあらゆる芸術家にとって憧れと畏怖の対象なのかもしれません。その音楽世界に挑むのは並大抵ではないはずですが、現代の振付家も高いハードルだけに挑み甲斐があるのでしょう。その果実たる傑作・秀作群を享受できる我々もバッハに感謝しなければいけません。