パリ・オペラ座バレエ団『白鳥の湖』『パキータ』

終わってみれば、やはりオペラ座だな、と思った。パリ・オペラ座バレエ団、3年ぶりの来日公演、開幕後もキャスト降板が相次ぎ混乱もみられた。お目当てのダンサーが観られず、悔しい思いをしたファン、高額なチケット代含め、パリ・オペラ座という“ブランド”への過剰な期待を抱いてみた人には不満が残ったかもしれない。しかし、オペラ座ならではの豪華な舞台と、個性豊かなダンサーたちの魅力は、やはり圧倒的だ。
白鳥の湖』はヌレエフ版(初演1984年)。“王子の物語”として読み解いたのが特徴。王子を支配する家庭教師=ロットバルト(1人二役)の存在などいくつもの謎を秘めた展開がスリリングだ。振付も、王子と家庭教師のパ・ド・ドゥ、終幕の王子、オデット、ロットバルトのパ・ド・トロワなど工夫がみられる。徹底した悲劇的結末を含め、ヌレエフのアプローチに賛否はあろうが、クラシック・バレエを新たに“演出”するとはどういうことかを、オーソドックスな上演に慣れた日本の観客に知らしめてくれた点で画期的だった。
『パキータ』(2001年初演)はピエール・ラコットがマジリエ版、プティパ版を基に復元。話は他愛ないけれども、楽しいし、華やか。長らく上演されることなく埋もれていた第一幕から、プティパ・バレエの代名詞ともいえるグラン・パ・まで、ロマンティックからクラシックへのスタイルの変遷がわかり興味深い。ラコット自身、『パキータ』には、敏捷性、アレグロのテクニックが求められると語っているが、ブルノンヴィルの『ラ・シルフィード』などロマンティック・バレエ時代の作品は、我々が想像以上にテンポよく、スピーディーに上演されていたと思われる。そういった点を含め、バレエ史の転換していく過程が、目にも鮮やか、肌で感じられたのが収穫だった。
両作品を通して感じられたのが、マイムの魅力と可能性。ヌレエフ版『白鳥の湖』では、第二幕、王子に対してオディールが、己の身の上を語る場面などで、ロシア風の古式ゆかしいまでのマイムが用いられる。凡庸な物言いになるけれども、ふたりの“心の交流”がひしひしと伝わってきて、じつに新鮮だった。『パキータ』では、第一幕第二場において『コッペリア』などと同様、コミカルなマイムが多用され、芸達者が演じれば盛り上がる。現在の古典・全幕バレエの演出において、グリゴローヴィッチ以後、マイムを極力排するのが当然と受け止められている。観るほうも、マイムの知識に乏しい。なかには「マイムなんてわからなくても、あら筋さえわかれば問題ない!」と豪語する人までいる。しかし、マイムはただストーリーを説明するだけのものではない。振付を練り上げる際、効果的に使えば表現の幅を格段に広げるものとなる(ピーター・ライトのようにマイムと踊りを絶妙に融合させた例もある)。マイムのよさをあらためて考えさせられた。
オペラ座といえば、エトワールはじめスターたちの競演がみどころ。ことに、大エトワールの貫禄すら漂いはじめたデュポン、老練が冴えるムッサン、たぐい稀な音楽性を示したルグリ、熱情的な演技の光るル・リッシュ、精緻な足技が見事なマルティネズ、渋みで魅せるロモリらベテラン勢の演技に惹かれた。ジロのような個性的なダンサーが活躍するのも、オペラ座の懐の深さなのだろう。これまで印象に薄く、ル・リッシュ夫人のイメージの強かったオスタも、『パキータ』のタイトルロールはぴったり。ペッシュ、べランガールらも進境をみせた。ジルベール、モロー、ティボー、パケットら若手のパフォーマンスもみずみずしい。群舞に統一感がなかったのが残念ではあるけれども、全体としてオペラ座新旧世代の縮図が見てとれる公演だった。
(2006年4月21日、22日昼夜、27日、29日昼夜 東京文化会館)