Noism08『Nameless Hands〜人形の家』

金森穣率いるNoism 新作の主題は「見世物小屋復権」。人形劇という趣向を軸に意志のない人形たち、それを操る黒子たちや人間たちが入り乱れる。休憩挟んで2時間、彼らの発散する強烈な存在感や細かな息遣いが舞台空間を、客席を侵食していく。
梅林茂、中島みゆき(「時代」)、ストラヴィンスキー(「春の祭典」)らによる聴きなれた楽曲を用い、演出もアングラ調のテイスト。振付や身体性に金森がヨーロッパでの修業時代最初に学んだベジャールや近年兄事する鈴木忠志の直截的影響がみられた(筆者は近年のものだが鈴木の演出作品を数本観ているし、富山県利賀村の演劇祭で鈴木メソッドのデモンストレーション等も観ている)。金森自身がアフタートークで口にしたが“ベタな選曲、ベタな演出”。金森が打ち出したのは、扇田昭彦らの著書から窺い知るばかりだが、60年代的な肉体の復権に近いのであろう。当節散見されるコンセプト重視、感覚的な身体への強烈なアンチテーゼである。かって鈴木忠志は早稲田小劇場時代、歌舞伎等を題材にしたコラージュによって現前する肉体の圧倒的存在感を主張した「劇的なるものをめぐって」シリーズを創作しているが、『Nameless Hands〜人形の家』は、金森による「ダンスとは、肉体とはなにか」をめぐる考察の産物であると思う。
一見、これまでの金森作品と趣を異にするように思えるが、無機的な身体という題材は代表作『NINA〜物質化する生け贄』(05年)を受けてのものであり、小スペースで演劇的手法を駆使して密な空間を創りあげる試みも新潟、静岡ほかで上演された『sence-datum』(06年)からの発展を思わせる。アングラなテイスト、判り易い演出によって観客を惹きこむ手法も『SIKAKU』(04年)などで使われている。思い付きや奇を衒って生み出されたものではなく、上滑ったところのない、地に足着いた表現として血肉化されているからこそ説得力があろう。とはいえ、さまざまの反撥や批判、酷評も予想されるなか今回の作品をあえて創った金森の気概というか大胆さには恐れ入るばかりだ。
好みは分かれると思うが、現在の金森の創作力、ポジションをもってしてこそ創り得る力作であり、日本のダンス界への問題提起として、また、多くの観客へ肉体の復権を訴求する意欲的な実験として意義があったといえるのではないだろうか。
(2008年7月2日 シアタートラム)