ボヴェ太郎『消息の風景−能《杜若》−』

7名の能楽師と共演し能の名作「杜若」に挑んだボヴェ太郎の新作『消息の風景−能《杜若》−』(7月2、3日 伊丹アイホール、3日所見)は、期待にたがわぬ刺激的な舞台だった。“空間と身体の呼応によって生成される「場」の可能性を、舞踊を通して模索してきた”(公演で配布のノートより)と自負するボヴェは、劇場空間のみならず美術館のエントランスや酒蔵といった空間でパフォーマンスを行ってきたが、今回、能楽囃子と地謡をバックとする能の上演形式に則ったうえで夢幻能「杜若」のなかに入り込み、がっぷり四つに組むという、荒業というか、いまだかってない、とんでもない試みである。
「杜若」は、いにしえの時代に在原業平が「かきつばた」の五文字を和歌に詠み込んだ、という話に基づいたもので、自然の情景、大和言葉の美しさや詩情を存分に反映しているとされる夢幻能の名作だ。黒の胴衣に白足袋のボヴェは正面客席からみると菱形のように設えられた正方形の木版のうえで、背後に座する囃子・地謡と三方から囲む観客を前に即興的に80分間、舞い、踊る。能でいうシテをボヴェが演じているようにみえるわけだが、能のシテよりも動きは多い印象で、手も大きく用いたり、足元の動きも多彩である。囃子・謡とは、ときに打々発止の関係であったり、ときに絶妙なる融合であったりと、音と動きの幅のある交感が空間を揺るがし、独特な密なる空間を生み出して、一時たりとも目を離せなかった。繊細な照明プラン(吉本有輝子)もすばらしい。
ボヴェはトヨタコレオグラフィーアワード2003のファイナリストに選ばれ『不在の痕跡』を発表、注目された(私も観た)。その後、2005年にジャワのガムランを演奏するグループと共演した東京公演の評が朝日新聞に掲載されたり(評者:稲田奈緒美氏)、2009年には舞踊研究家の芳賀直子氏のコーディネートによって京都精華大学にて開催された「バレエ・リュス展」の関連企画に取り上げられるなどしたが、ボヴェの、緻密に空間を操り身体との豊かな呼応関係を生み出すメカニズムを短評ながら鮮やかに解明・分析したのが門行人氏が身体表現批評誌「Corpus(コルプス)」3号に寄せた『implication−風景として響きあう空間と身体− 』(2007年7月)評であろう。その『implication』はアイホールの実施する「Take a chance project」公演であり、3年にわたってボヴェがアイホールで作品発表の機会を得るものの第1弾だった。第2弾が『Texture Regained -記憶の肌理-』(2008年)、そして第3弾が今回の『消息の風景−能《杜若−』というわけである。私は『Texture Regained -記憶の肌理-』を関西にバレエ公演の拝見に伺った際に折りよく見ることができ、その前後に東京で上演された『余白の辺縁』(2007年 セルリアンタワー能楽堂)、『in statu nascendi』(2009年 世田谷美術館)と伊丹での『陰翳-In praise of shadow-』(2010年 国指定重要文化財「旧岡田家住宅」)もフォローしている。空間との兼ね合いもあり、すべてうまくいったわけではないが、才能は疑いない。舞踊家としての独特な感性も捨てがたいが、それ以上に、空間構成の緻密さが特筆され、踊りとの化学変化から立ち上がる密度の濃い表現は圧巻だ。
ボヴェには今回の公演で監修を務めた前アイホール・プロデューサーの志賀玲子、現・アイホール・プロデューサーの小倉由佳子らブレーン的存在がいるようで、心強いが、今後のボヴェの展開はどうなるのか。1981年生まれと30歳手前だが、この異能がどう芸術家としてのさらなる可能性を見出していくのか。関西のコンテンポラリー・ダンス系の評論家等からはそれなりの評価は得ているが、関東の関係者筋等からは前記の方やその他一部を別にすればスルーされている感。何も売れたり賞を貰ったりすればいいわけでない。本人が悔いのない舞踊人生を歩めばいい。が、多くの観客との出会いも期待したい。今回公演のアフタートークで、今作など機会あればさまざまなホール等で上演したいとボヴェも話していたが、日本各地、そして、世界各地でも高く評価され歓迎され得る可能性を秘めている。売り方次第といえば商売臭がするが、優れた才能が埋もれることがあっては、損出だ。ボヴェの洋々たる前途を願っている。