「新鋭・中堅舞踊家による現代舞踊公演」

コンテンポラリー・ダンス”を支持するファンは、現代舞踊協会系=日本的モダンダンスの舞台を、まず観ない。“つまらないとわかっているから、みないと決めている“と声を大にして吹聴するダンス・フリーク、評論家も珍しくない(何をみるかは個人の自由、しかし、みないで批判するのはフェアじゃない)。近代舞踊史の流れからすると、モダンは、ポストモダン、やがてコンテンポラリーへと変遷をみせる。そのなかで、日本的現代舞踊は、内容・形式的にも、また教育・公演システムも旧態依然としており、芸術ダンスのメインストリームから取り残されていった――というのが、彼らの主張である。果たして、そうなのだろうか。
たしかに、モダンは乗り越えられ、歴史的使命を終えたかに思える。すくなくとも、形式面での新しさという点では。公演形態、師匠が弟子を育てるという日本的システムは閉鎖的という批判も一理ある。しかし、個人的には、石井漠以後、日本の現代舞踊界が育んできた、技術・人材の集積と、日本人ならではの美と精神性をたたえた身体の追求という点で注目している。
前置きが長くなったが、先日、現代舞踊協会主催「新鋭・中堅舞踊家による現代舞踊公演」をみた。“新鋭・中堅“の定義が曖昧な気もするが、日本的モダンの中枢たる現代舞踊教会系のメインストリームを担っていく人材たちのお披露目といったところだろう。一日十曲、二日間二十曲(そのうちフラメンコが四曲)をみるのはいささか疲れたものの、現代舞踊界の現在の状況を掴むことができた。

全体的にいえるのが、ダンサーたちがよく鍛えられた身体を持っているということ。自分で踊るにしろ、他の振付家の作品を踊るにしろ、表現を伝える手段として技術が必要だ。若手中心に、優れた技量を持つダンサーが散見された。また、現代舞踊=つまらないという悪しき風評をひろめた、大上段に社会的テーマを訴えたりしたものは少なかった。たとえ教科書的、既存のボキャブラリーに依存してはいても、それをベースに自らの内面と向き合いどう動きを紡ぎだすか、という点に関心のある作者が多いのも収穫だった。

以下、個人的に注目した作品を挙げる(フラメンコは除く)。

北島智子『UTAKATA』は、デュオ。照明や動きの造形に新味はないが、膳亀利次郎と北村の個性が活かされた。冴子『魚にもどれなかった男の話』は、ボキャブラリーが多彩。作品を構築しようという強い意思が感じられた。造形の上手い、オフ・バランスの動きなどをもっと活かしてもいいかもしれない。渡辺麻子『なかにわ』は、女性四人の濃密なパフォーマンス。照明効果、曲構成などにも工夫がみられる。内田香『na mi da』は、本公演中最大の十三人が出演したが、群舞、ユニゾンなどの作舞のレベルが高い。近年、各種コンクール・賞を受賞しているが、その力量はホンモノだ。古賀豊『ROMEO―光に沈むJuliet達―』は、視覚的にきわめて美しい。ライトを下降させて空間を変容させる照明の手法自体、新味はないけれども。

気になった点をいくつか。バレエのパをそのまま、もしくは少し変えたものが乱用された作品がいくつかみられたこと。バレエのテクニックを使うのは構わないが、手軽に、動きのつなぎに用いるのは安易。また、有名曲を使用するのも、よほどの覚悟と勝算のない限りやめたほうがよい。出演者の選考に関しても、よりオープン、納得のいくものにして欲しい(本公演に限らないが)。

ともあれ、大学ダンスもふくめ、日本のモダンダンスの新たな世代も育ちつつある。コンテンポラリー・ダンスとの境界を越えコラボレートする試みもみられる。現代舞踊協会はじめ、業界の意識も代わってきているようだ。観る方も、コンテンポラリー/モダンと隔てず、常に共感しつつ観続けられれば、と思う。

(2006年6月7、8日 東京芸術劇場中ホール)