若い才能に対する責任

熱心なシアターゴーアーにとって新たな才能を誰よりも早く発見したいと思うのはごく自然な欲求だろう。小劇場演劇のファンのなかには玉石混淆のなかからいち早く逸材を見つける強者が少なからずいる。私も以前は演劇マニアだったので、いま小劇場シーンで話題を集めている劇団は最初期からチェックしている。ポツドールは伝説の『騎士クラブ』初演から、毛皮族こまばアゴラ劇場公演から、本谷有希子も新宿のパンプルムス時代に観ている。五反田団も割合はやくから観ている方だと思う。『家が遠い』とか『びんぼう君』とか。テレビや商業演劇の世界からも注目を浴びる座付作家を要するONEOR8や桟敷童子も初期に観ている。今をときめく彼らもとにかくチケットが売れず、演劇誌、情報誌等でチケットプレゼントをばら撒いていた時期が長かった。
今あげた団体を大手媒体や大御所の演劇評論家が取上げだしたのは3年から5年あとのこと。当時、なぜ注目されないのか歯がゆい思いをした記憶がある。70〜80年代、つかこうへいや野田秀樹がデビューしたころは当時朝日新聞文化部の記者だった扇田昭彦らが最初期からチェックし取上げていたのに、それに比べ現在の演劇ジャーナリズムは明らかに怠慢気味に感じる。岡田利規チェルフィッチュなんてダンス批評家にいち早く評価され、岸田賞を取るや否やマスコミや演劇関係者が大挙押しかける始末。いま若い気鋭の書き手は演劇ではなくダンスに流れているようだ。演劇ジャーナリズムもライターさんは別にして若手や外部の参入が活発化したら面白くなるだろう。
さて、話がそれたが、たとえ荒削りであっても若くすぐれた才能にはいち早く光をあてるのは好ましいとは思う。無論、むやみに青田買いは出来ない。ことに舞踊界は若いアーティストに甘いと感じることもある。ショーケースやコンペなど発表の機会も多く、さまざまな援助も行われているのは好ましいが、それがアーティストにとって必ずしもプラスになっていないケースもある。小規模とはいえマーケットの成立する世界。消費されやがてはポイと捨て去られなければいいのだけれども…。ジャーナリズムも持ち上げた以上は責任を持ってそのアーティストの活動に向き合うべきだろう。興味がなくなったから、自分たちの思う方向に進まなかったからといって「駄目」と切り捨てたり、「終わった」なんて軽々しくは言ってはならないと思う。ジャーナリズムには観客・読者に対する責任とともにアーティストに対するそれも発生することを忘れてはならない。