矢内原美邦、アーティストの矜持

3月16日付「讀賣新聞」夕刊(東京本社版)の「クラシック 舞踊」のコーナーに先日、横浜赤レンガ倉庫1号館にて行われた矢内原美邦 新作ダンス公演 『あーなったら、こうならない。』の公演評が出ています(筆者:堤広志氏)。「死に囚われた人生 端的に」と題されたもので“人生の苦悩を描いて痛切な舞台となった”“死に囚われた人生を描く思慮深く秀逸な舞台”などと高く評価。同公演を観たものとして同感でした。
矢内原が音楽・衣装・映像等のアーティストと組んでのディレクター・システムによるニブロールでの舞台とは異なり、より身体に、よりダンスにフォーカスをあわせた作品。ダンス公演と銘打つからには期するものがあったのでは。そして、「讀賣新聞」の評が鋭く指摘しているように、主題として死というものが色濃く出ているのは明らかです。矢内原の個人的な想念によるものなのでしょうが、それ以上に、死というものは、舞踊、そして人間が生きるうえでの根源にあるテーマといえます。そこにこれまで以上に突っ込み、真摯に向きあうことで矢内原の描く世界はより深度を増した印象を受けました。
そして、“スキルの高い若手ダンサーたちのポテンシャルをストレートに活かし、振付も効果的で洗練されている”と「讀賣新聞」評でも指摘されているように、かつての矢内原作品とは違って踊れるというかある程度のダンス経験のあるダンサーがアグレッシブに動いていました(その兆しは2008年『ロミオ OR ジュリエット』から感じられ、私は当時媒体に寄稿した評で指摘しています)。以前の矢内原作品でもあったようなダンサー同士がぶつかったり絡んだりする場でも、緻密な身体コントロールによってよりそのタイミングが巧妙に。人と人の関係性や距離がより微細に説得力を持って語られかつスリリング。倒れたり、横たわったり、震えたりといった動きも単なる感情の発露や生の身体を晒したしたものでなく、作品全体のなかでの必然ある振付として見えてきました。ダンサーの技量を活かしつつありふれたダンスを踊らせないでダンス、振付というものの可能性の萌芽を感じさせた矢内原の試みは発展途上にせよ刺激的でした。
矢内原といえば同時期に深川東京モダン館で行われていたoff-Nibroll 映像インスタレーション 「Double START」 展も印象に残りました。映像、写真などのメディアを通して身体との関わりを追求しているoff-Nibroll。今回が東京での初の個展でした。そのなかでもっとも忘れられないのが『チョコレート』という作品(昨年末に名古屋で行われたイベントでも見ましたが)。矢内原と映像の高橋啓祐の祖父たちの戦争時代の写真の前にハート型の小さなチョコレートが無数散乱しています。鑑賞者はチョコを踏みながら写真をみることに。ここでチョコは死んだ人の心臓という意味をこめて作られているそう。甘美で口解けがよい。でも、小さなハート型のものを踏んでもなかなかビクともしない。いま、われわれが生きていられるのも先祖や先達のおかげであり、多くの人々の死や犠牲のうえに成り立っているということを身にしみて実感させてくれます。
矢内原が凡百の振付家/アーティストと立場を異にするのは、声高に主張せずとも生の実感や死をめぐる想念を観るものにひしと伝えること。そこにアーティストとしての矜持があるのでは。『あーなったら、こうならない。』も『チョコレート』もその線を外していません。アートとは鑑賞者との対話。矢内原の創造の核には、パーソナルな事柄をいかに社会や世界との間で捉えるかの模索があり、それを観るものが肌で感じられる。表現が信じられる。仮に迷走があったにしても。今後の活動からも目が離せません。
2010 矢内原美邦「あーなってもこうならない」ただいま稽古中

Ierimonti and Off Nibroll