東京バレエ団・クランコ振付『オネーギン』初演

物語バレエの巨匠と称されるジョン・クランコ屈指の名作であり、ドイツのいくつかのバレエ団や世界の一流カンパニーにしか上演が許されていないレパートリーを日本のバレエ団としては初上演するということで大変な注目を集めていた。西洋(ロシア)の田舎の貴族社会を描いたドラマティック・バレエをオール日本人キャストがどう演じるのか興味津々だったが、結果としては、まずまずの優れた仕上がりだったように思う。
何よりもあらためてクランコの天才的な作舞術と造形力に唸らされた。プーシキンの韻文小説のリリシズムを損なわずドラマ性豊かにして古典的風格を兼ね備えていることで定評あるが、実際の舞台に接するたび「クランコって天才」と思わずにはいられない。いわゆる古典バレエでは、ダンスのあいだにマイムがはさまれることにより物語が進行する。それに対しクランコの全幕物語バレエでは、ダンスそのものが雄弁にドラマを物語っていくのが最大の特徴。ことに『オネーギン』は、チャイコフスキー曲をこれ以上ないくらい鮮やかにまとめた編曲と演出の妙も相まっていて、物語バレエの最大傑作と呼ぶにふさわしい。1幕「鏡のパ・ド・ドゥ」、3幕「手紙のパ・ド・ドゥ」は、タチヤーナとオネーギンの葛藤や心理の移り変わりを痛いほどに伝えてクランコ・マジックの最高の精華だろう。モブシーンの緻密かつ自然な演出や舞曲にのせた精巧で変化に富んだ群舞の振付もすばらしい。ことに東京バレエ団の上演では、そのあたりをじつにていねいに、躍動感たっぷりに演じ・踊っていて、クランコ振付の妙味が存分に伝わってきた。
主要キャストは3組の配役。個人的にもっとも感銘を受け、また、客席の反応も大きかったと感じたのが2日目だった。タチヤーナを踊った斎藤友佳理にとっては同役を踊るのが10年越しの悲願であることは、関係者のみならず多くの観客が知るところだろう。その特別な感慨あってか終始なんともいえない高揚感が舞台と客席を支配し、カーテンコールでは熱狂的なスタンディングオベーションが起こった。斎藤のタチヤーナは激情的で、メランコリーな表現にも秀でており、有無を言わさぬ迫力で押し切る。初役ながら畢生の演技とは、まさにこういうものを指すのだろう。木村和夫のオネーギンが会心の出来で、タチヤーナを弄び拒絶する冷血さから転じての激烈な愛の放出に胸を揺さぶられた。初日のタチヤーナ:吉岡美佳、オネーギン:高岸直樹も水準を上回る出来ばえだと感じた。吉岡はタチヤーナの移り行く心のゆれ動きを繊細に演じているのが魅力的。少々淡白にも思えるが見せ場を心得つつ微細に表現を変えていく舞台のさばき方に感心させられた。パートナーシップの妙・演技の方向性の一致度という点ではこの日が一番合っていたかも。最終日のタチヤーナ:田中結子、オネーギン:後藤晴雄組も熱演。独特な色気とノーブルな感性が同居する後藤ならではの役作りが感じられたし、テクニック、感情表現ともにしっかりした田中も無難な演技をみせたもののパ・ド・ドゥでのサポートのミスが相次いだのが返す返すも悔やまれる。オリガを踊った小出領子/高村順子/佐伯知香は、いずれもチャーミングで踊りも流麗と粒ぞろい。レンスキーの長瀬直義/井上良太は、ともにやや線が細いし不安定な箇所も見受けられたが、しなやかな体づかいと気持ちのこもった演技をみせていた。若くこれから楽しみな存在だ。
今回の配役は、クランコ作品の本家・シュツットガルト・バレエ団の芸術監督リード・アンダーソンが直々に来日して行われたトライアルによって“役柄への適性や組み合わせのバランスを重視した”(チラシより)ということになっている。クランコ作品指導の第一人者の指名に文句の付けようはないが、キャスト発表時には「なるほど」と膝を打ったりあるいは意外性に驚くいっぽうで、もっと違った組み合わせもあるのではと思ったりもした。それは、公演終了後も変わらず、タチヤーナ、オネーギン、オリガ、レンスキー役を踊ったキャストいずれも好演だったとはいえ違った組み合わせを観たいと感じるのも事実。斎藤と高岸、吉岡と木村という組み合わせならどうだっただろうか。オリガを踊って出産復帰後完全復活を果たしたといっていい小出領子など、持ち味の芯の強い表現力からしてタチヤーナも踊れるだろう。いや、むしろオリガより合っているのではないかと思う。ともあれ、東京バレエ団は古典にしろ現代作品にしろ再演の際の仕上がりがいいのが持ち味なので、多彩なキャストによる再演を心待ちにしたい。
(2010年5月14、15、16日 東京文化会館)