Noism1&Noism2合同公演 新潟限定 劇的舞踊『ホフマン物語』

Noism1&Noism2初の合同公演 新潟限定 劇的舞踊『ホフマン物語』は本拠地・新潟のりゅーとぴあ(新潟市民芸術文化会館)での3日間限定。公演シーズン真っ只中であるが、さっそく初日(7月16日)に駆けつけた。Noism1と研修生カンパニーNoism2あわせて19名が出演し、序幕・終幕付きの全3幕構成。休憩込みで上演時間は2時間15分という大作である。芸術監督/振付家金森穣の手腕に注目が集まった。
公演タイトルからもわかるように、ジャック・オッフェンバックの未完のオペラ「ホフマン物語」をモチーフにしている。しかし、金森はオペラの台本と、原作であるE.T.A.ホフマンの著した3つの小説を読み込んで完成させたというオリジナル台本を基に独自の版を生み出した。井関佐和子扮する架空の人物「亡き女優」ステラが幕ごとに「操り人形オランピア」「男装の娼婦ジュリエッタ」「病弱な娘アントニア」を演じ、同様に宮河愛一郎が劇作家E.T.Aに扮して「オランピアの作家」「ジュリエッタの愛人」「アントニアの父親」を演じる。そこに「光る子供ニクラウス」(藤井泉)、「影男リンドルフ」(櫛田祥光)、「羊のアマデウス」(真下恵)らが幕ごとにさまざまな役柄を演じわけ、それに「3人のホフマン」(藤澤拓也、永野亮比古、中川賢)、「3人の妻」(計見葵、後田恵、井関佐和子)がこれまた幕ごとに色合いの違う性格を演じて絡む。他には舞踏会の来客や娼婦たちといった群集にNoism1&Noismのメンバーが場に応じて扮している。
りゅーとぴあの劇場を張り出して、奥行きもたっぷりな地舞台。そこに劇場備品である箱馬と平台を用いてサイズの違う大きな積み木を状況に応じ出演者たちが自在に組み立て装置に見立てるという空間設定は金森自身のアイデアによるものだという。人形振りや四肢を大きく用いた力感溢れる踊り、迫力あるユニゾンといったようにあの手この手の振付術が駆使される。登場人物たちは役に応じて多彩な色合いに変化する衣装(中嶋祐一)をまとう。『NINA-物質化する生け贄』『PLAY 2 PLAY- 干渉する次元』という金森の以前の傑作に参加したトン・タッ・アンが金森の構想にあわせて書き下ろした音楽もオッフェンバックとはまったく違う現代音楽なのだが刺激的だ。生と死や現実と幻想、耽美と怪奇といった対照的なさまざまの要素が混在し合うドラマを、めくるめく展開と重層的な劇構造のもとに描き出して、大変に見ごたえがある。
金森の前作『Nameless Poison〜黒衣の僧』は、アントン・チェーホフの小説をモチーフにしているが、そこから喚起されたイメージをコラージュした造りで、明確な物語性はない。それに比し『ホフマン物語』は、物語がやや前面に出てくる。とはいえストーリーを語ることに眼目はなく、舞踊・身体表現による創作としては具象と抽象のあいだを行き来する。人物関係がやや複雑なこともあり分かりやすい内容ではない。でも、謎のない創作にマジックなど宿ろうはずもなく退屈極まりない。今作は、ダンサーの身体のぶつかり合いから生まれるエネルギーが生み出す豊穣なイマジネーションと観客の想像力が交感して初めて成立し得る。客席をも含めた劇場空間を巻き込むようなダイナミズムに満ちたパフォーマンスであり、まさに“劇的舞踊”としか呼び得ないものだろう。
劇場空間を非日常な祝祭的空間に変えるダイナミズム、それに、これまで以上に生と死という主題が濃密に出ていることから、金森のなかにあるであろう「ベジャールの血」を強く感じた。あくまで個人的な雑感に過ぎないかも知れないが・・・。作風や振付が具体的にモーリス・ベジャールの作品と似ているとかいうわけでない。そう感じる人もまずいないはず。でも、舞踊芸術という肉体による表現が根源的にはらむ生と死という問題を抱え、イマジネーション豊かなスペクタクルを持ってして多くの観客を祝祭空間に巻き込むという点では、師のひとりであるベジャールと相通じるものがあるのでは。
新潟限定というのが惜しいが、強いてそれを決行する金森/Noismの姿勢は理解できるし支持したい。地域に根付いた劇場専属舞踊集団として時間をかけたクリエーションを行って世界各地でも公演を続けてきたこの6年の成果は、わが国の舞踊シーンの金字塔であり、モデルケースとなるべきもの。りゅーとぴあでのNoism公演は劇場のみならず能楽堂、スタジオでの公演を含め何度も観てきたけれども(2004年の旗揚げ公演以後、ワークショップ公演等を除いたNoismの本公演で上演された作品をすべて観ている評論家は私だけだと思う)、シーズンを重ねるごとに観客の熱が高まってきているのを肌で感じる。今回など、文字通り食い入るように舞台に集中し、カーテンコールでも熱烈な拍手を送る観客が多々見られた。22時を過ぎても続いたアフタートークでも熱心な質問を浴びせ、舞台から受けた印象を熱く語る人が後を絶たないのが印象的だった。
金森は故ピナ・バウシュが、自身の率いる舞踊団の活躍によってヴッパタールを一大芸術都市にし、世界各地からの観客を集めるようになった例を挙げ、そういった展開を志向する旨をインタビュー等で述べている。が、ピナの場合、作品もそうだがピナという存在そのものがあらゆる芸術家の一等星のなかでも例外中の例外といえる格別の個性があって、そこに少なからぬ人が惚れ込んだわけだ。同様にはいくまい。今回のような深くて刺激的だが決して分かりやすいとはいえない大作に、熱心さと好奇心を持って迫る新潟の観客を目にすると、むしろハンブルク・バレエの芸術監督ジョン・ノイマイヤーハンブルク市民の関係を想起した。ノイマイヤーの作品は深いけれども常識的にいえば難解と分別されよう。でも、ノイマイヤーは何十年も市や市民に理解されて愛され続けている。日本とは文化事情が異なるとはいえ奇跡のようなものだといってもいい。Noismの活動は2013年8月までの期間延長が決まっている。プログラムやアフタートークでの文言、それに何より作品の充実が金森のモチベーションの高さを示していよう。繰り返すが観客も熱い。さらなる先を射程に入れての展開を期待したい。(敬称略)


ホフマン短篇集 (岩波文庫)

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