「日本バレエのパイオニア−バレエマスター小牧正英の肖像−」糟谷里美 著

さる7月30日、東京小牧バレエ団が戦後バレエの先駆者として知られる故・小牧正英(1911〜2006年)の業績を顧み「小牧正英生誕100年記念公演1」を新国立劇場オペラ劇場にて催した。演目は小牧正英の手によって本邦初演されたフォーキン・バレエの名作『ペトルウシュカ』『シェヘラザード』の二本立てだった。大掛かりな装置を用い出演者多数を要する二作の同時上演は世界的にも珍しいはずで話題を呼んだ。
時を同じくして小牧に関する著作が上梓された。「日本バレエのパイオニア-バレエマスター小牧正英の肖像-」糟谷里美 著である。著者は舞踊研究者で昭和音楽大学専任講師。舞踊教育学(バレエ教授法)、舞踊分析学を専門としている。


日本バレエのパイオニア―バレエマスター小牧正英の肖像

日本バレエのパイオニア―バレエマスター小牧正英の肖像


コンパクトな分量にして内容濃い。非常な労作である。小牧のバレエ人生を冷静に俯瞰して検証しつつ戦後バレエの発展の歴史が二重写しになるのが心憎い。
小牧は岩手生まれ。上京して目白商業高校を卒業したのちハルビンの音楽バレエ学校に学び、当時魔都と呼ばれた上海のライセアム劇場を拠点にしていた「上海バレエ・リュス」の中心ダンサーとして活躍した。戦後帰国後は第一次東京バレエ団による『白鳥の湖』全幕日本初演に際して主導的な役割を果たす。その後も数々の古典バレエや近代バレエを紹介し日本バレエの礎を築いた巨匠である。本書は序章と結章含めた7章構成。幼少期を過ごした岩手への綿密な取材によって小牧のルーツを探り、ハルビン時代を経て「上海バレエ・リュス」時代の活躍をいきいきと活写し、帰国後に本格的なバレエを普及させようと熱意を燃やした小牧の道程を追っていく。
小牧は単に多くの古典バレエや近代バレエを日本に移植したに留まらない。時期と機会を見計らって最良の状態で紹介した点に真価があろう。本書の第四章「外国人舞踊家の招聘」では、ソニア・アロワ、ノラ・ケイ、ポール・シラード、アントニー・チューダー、マーゴ・フォンティン、マイケル・サムスといった当時の世界第一線のダンサー/振付家を招聘した歴史が語られる。『眠れる森の美女』『ジゼル』やチューダー作品を当時望みうる最高の形で日本の観客に紹介した小牧の国際感覚の見事さと日本のバレエの現状を冷静に見つめていた分析力の確かさをあらためて浮き彫りにする。
また、第五章「創作への挑戦」において小牧の創作作品について論じているのも注目される。チャイコフスキーの「悲愴」に感化され「ヨブ記」をモチーフに生まれた『受難』に始まり、横光利一原作『日輪』、『交響曲第四番』、最後の大作となった『やまとへの道』に至る諸作に触れている。岩手江刺の郷土芸能を基にし宮沢賢治の詩に取材した『剣舞』についても紙数を割いて紹介している。ことに小牧作品の底流にある「運命」「死」「愛」「苦悩」といった、小牧が芸術家として人間として終生抱えていたであろう命題を洗い出していく手際は鮮やかで、筆致にもひときわ熱が感じられる。
結章「夢の実現へ」では、多くの後進を育て、バレエ人の結束や社会的地位の向上のため日本バレエ協会設立に深くかかわり、上海から帰国後夢見た“劇場をもつ組織的な職業バレエ団”として第二国立劇場(新国立劇場)実現へ向けて運動してきた軌跡が語られる。韓国やモンゴルとのバレエ交流についても触れている。小牧がディアギレフ・バレエから、ロシア・バレエから受け継いできた伝統の継承、小牧の遺産をどう未来へつなげていくかという「先」を示唆して終わっており読後感はすがすがしい。
小牧が戦後バレエの発展の礎になったのは揺るがせない事実である。ただ、1960年代に入ると小牧バレエ団の公演数は激減していく。そのため小牧の業績が埋もれてしまった感があるのは否めない。だが、著者は団員の相次ぐ退団などによる衰退というよりも“本格バレエの普及や日本人独自の新しいバレエの制作といった小牧自身の目標は、ひとまず終わりを告げ、日本初演を実現してきた数々のレパートリーの再演を通じて、その伝統を継承していくという次なる使命を課せられたのだとも考えられる”と指摘する。小牧は後年、自伝やバレエ・舞台学の著作を著すとともに、日本バレエ協会や「NHKバレエの夕べ」の公演で演出・振付を続けるなど小牧バレエ全盛時とは違った形であれバレエ芸術の継承に心血を注いでいる。そこを見落としてはならない。
最後に小牧版のディアギレフ・バレエに関して。ディアギレフのバレエ・リュスの流れをくむ欧米のカンパニーのものと比してどうなのだろうか。見方はいろいろあろうが、小牧バレエの系譜を継ぐ東京小牧バレエ団の上演する『火の鳥日本初演版復元版や『牧神の午後』『薔薇の精』などの実演に接する限り、映像を含めわれわれが見慣れた諸外国のカンパニーの上演しているものと基本的に変わらないと思う。先日上演した『ペトルウシュカ』にしても広場の景の群衆処理に若干独自の色付けもみられるが、ペトルウシュカ、バレリーナムーア人らの主なる振付が原典に沿っているのは、だれの目にも明らかだ。改作版と銘打った『シェヘラザード』にしても、エピローグ/プロローグに語りを入れた演出は独自のもので、音楽構成がフォーキン版と異なるが、ほかはおおむね原典を尊重しているといってよいのでは。「上海バレエ・リュス」には、バレエマスターのソコルスキーはじめディアギレフのバレエ・リュス出身者もいたというから当然であろう。小牧の上海時代の活動がより詳しく明らかにされ、「上海バレエ・リュス」の研究も進めば、そのあたりが明確になっていくに違いない。その意味でも、小牧の業績を「公平」な目から検証した本書は、今後の小牧正英研究の指標となるのではないか。
なお、引用・参考文献/小牧正英年譜/公演活動年表/日本バレエの黎明期から発展期への略年譜といった資料も充実している。モンゴル時代や戦後間もない舞台やプログラムの写真も盛りだくさんで資料的な価値が高い点も特筆される。



バレリーナへの道 87

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「白鳥の湖」伝説―小牧正英とバレエの時代

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バレエと私の戦後史 (1977年)

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ペトルウシュカの独白 (1975年)

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