来日ダンス公演・招聘のあり方について〜ジェローム・ベル『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』日本版上演に思う

舞台芸術シーズンたけなわ、公演がめじろ押しのなか、一際話題を集めたのが、公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団フェスティバル/トーキョーが共催した『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』(11月12、13日 彩の国さいたま芸術劇場大ホール)だろう。
これはコンテンポラリー・ダンス界で注目を集める振付家ジェローム・ベルの代表作(2001年初演)。ベルはコンセプチャルで「ノン・ダンス」と称されるダンス的表現を極力排した作風によって注目される鬼才だ。『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』は誰しもが一度は耳にしたことがあるようなポップソングにのせ、職業や年齢や性別の異なるパフォーマーたちが出演する異色作(今回の日本版には公募キャストとDJ等29名が出演)。
闇のなか流れる「ウェストサイド物語」の「Tonaight」に続きミュージカル「ヘアー」からの「Let the Sunshine In」にのせて舞台が少しづつ明るくなる。映画「タイタニック」の主題歌として知られるセリーヌ・ディオンの「My Heart Will Go On」にのせてレオナルド・ディカプリオケイト・ウィンスレットによるお約束のポーズを皆でやったかと思うと、ビートルズの「Yellow Submarine」が鳴り響き、出演者はセリにのって沈没していく。DJが突然音響を止めたり、また鳴らしたりした挙句、舞台に乱入してソロを踊るというお遊びや、客席に照明を当て舞台に何もない時間を作ったりといった意表をつく展開も。コンセプチャルで人を喰ったような演出がつるべ打ちのように続いていく。
本作について、「ダンスとは何か」「観ることとは何か」「劇場とは何か」といった命題を問いかけたもののように喧伝されているし、ベル自身もアフタートーク他でそのようなことを言っている。いかようにも読み解くことは可能。とはいえ、ベルのコンセプトや流される楽曲のニュアンスを「理解」したうえで、ベルの挑発にのせられつつ舞台と客席で進行している事態をクールに眺めながら楽しんでいた人も多かったのではないか。10年前にパリで初演された際には、観客のブーイングを浴びて、ひと騒動になったというから、それに比べ日本の観客はベルの挑発・企みに対し、じつにクールでスマートな処置・対応をしたといえようか。あくまで個人的実感に過ぎないが…。
ともあれ10年前の作品である。いまさら、なぜこれを?という疑問を抱いていた/抱いた向きも少なくないはず。ベル作品の日本上演ということでいえば、昨年、同じさいたま芸術劇場で上演され「あいちトリエンナーレ2010」のクロージング作品ともなった『3Abschiedドライアップシート』(ローザスアンヌ・テレサ・ドゥ・ケースマイケルとの共作)という近作が先になっている。ベルが欧州コンテンポラリー・ダンス界の寵児といわれていても、その存在が日本で知られるようになったのは近年。パリ・オペラ座に委嘱された『ヴェロニク・ドワノー』や「横浜トリエンナーレ2008」の片隅でひっそり上演された『ピチェ・クランチェンと私』によってマニアックな支持を得てはいたが、比較的メジャーといえる存在になったのは昨年の『3Abschiedドライアップシート』においてだろう。
海外作品の招聘に関しては呼ぶ側の選択だけでなく諸条件やタイミングに左右されることが多いかと思う。さいたま芸術劇場としては『ヴェロニク・ドワノー』を映像上映し(「videodance2008」)、昨年の『3Abschiedドライアップシート』を経て、ベルの存在を浸透させ今回代表作上演にこぎつけたというプロセスがある。『ザ・ショー・マスト・ゴー・オン』が現地キャストで上演されるようになったのは近年ということもある。世界50都市で上演されてきたという、この10年のコンテンポラリー・ダンス界の大ヒット作を今回のタイミングで日本版にて上演したことは、それなりに時機を得たものといえるかもしれない。賛否両論あるようだが、ベルにとっても招聘者にとっても望むところだろう。議論や反響を巻き起こす力を秘めたソフトであり、刺激的であったのは確かである。
いまや誰しもが気軽に飛んで行ける時代である。来日するものだけを観ていて世界のコンテンポラリー・ダンス云々を安易には語れない時代である。各国のファスティバルに積極的に通う評論家の方もいる。個人的には、ごくまれに来日のコンテンポラリー・ダンスの評を依頼された場合、作品評というだけでなく、その作品がいま日本で紹介されたことにどういう意義があるのだろうか考えて触れるように努めているつもり。けれども結果論に過ぎないと痛感もする。すべては、めぐりあわせ。だが、一昔前のようにビッグネームや来日していない気鋭アーティストを呼ぶことに比重がかかり大きな価値がある時代は終わった。有能な招聘者ならば、誰を、いつどういう機会にどのタイミングで呼ぶか熟慮しているに違いない。そして、それがどのように影響を及ぼしていくのか。結果論であろうと、そこが問われ検証されていくことも求められるのではないか。
コンテンポラリー・ダンスのアーティストの場合、タイムラグがなく近作が継続的に紹介されるのが望ましい形ではあろう。その点、さいたま芸術劇場では、近年、ダンス界の巨匠が相次いで亡くなるなか注目度が一層増してきており、音楽ファンにも訴求するケースマイケルを定期的に招いているし、美術畑出身で現代美術に関心を抱く層にもアピールするヤン・ファーブルに関しても最近作を継続して上演している。以前はピナ・バウシュやイリ・キリアンらを招聘しビッグプロジェクトを企画していたが、近年は、先鋭的かつ広範囲にアピールできるアーティストを取り上げているように思われる。時代の要請と招聘環境に応じた、ひとつの見識に違いない。アフタートークや他の機関とリンクしてのシンポジウム等、作品理解を深める企画を比較的丁寧に行っているのも望ましい。アーティストの存在や作品の魅力を観客に届ける補助線を引くのも大切だ。観客を消費するようでは何のために誰のために招聘しているのか分からないのだから。

ザ・ショー・マスト・ゴー・オン


Veronique Doisneau 1