ルジマトフ&レニングラード国立バレエ〜ルジマートフ、選ばれし者にして求道者、記憶に残る踊り手



世にすぐれた踊り手は数いれど、見るたびに印象を新たにし、進化と深化に畏怖を覚えずにはいられないダンサーは、そう多くはない。ファルフ・ルジマートフはその数少ないひとりである。40歳を過ぎてもマリインスキー劇場を代表する踊り手として活躍。クラシック・バレエを極め、フラメンコや舞踏とのコラボレーションを通して自身の表現の幅を拡げようと無限の挑戦を続けている。選ばれしダンサーにして果てしなき求道者である。ルジマートフは先日、レニングラード国立バレエ日本公演にゲスト出演。ガラ公演「バレエの美神」にも参加した。レニングラード国立バレエ公演は、残念ながら『白鳥の湖』は見逃したが、『ラ・シルフィード』『バヤデルカ』を観ることができた。  ルジマートフが『ラ・シルフィード』を日本で踊るのは、初めてのこと。期待はいやがうえにも高まる。ルジマートフのキルト姿はなかなか似合ってはいたが、ジェイムズという若者に必要とされる若さの発露という点では、少々物足りないものがある。有り体にいえば、ルジマートフの孤高というか、独特の陰影に富む風情が、老いを強調してしまうのである。また、ブルノンヴィル版特有の細やかなステップもこなすのが精一杯という印象であった。ルジマートフにとって『海賊』のアリや『ドン・キホーテ』のバジルのような当たり役ではないのも事実。しかし、シルフィード役・オクサーナ・シェスタコワの、軽やかで妖精そのものを体現したかのような見事な踊りに惹きつけられるように、ルジマートフは幻影というよりも悪夢に惑わされ破滅していく男の性(さが)のようなものをみせた。ルジマートフのジェイムズと呼べるものを創り出すことに成功していたように思う。

一方、十八番のひとつである『バヤデルカ』のソロルは、その時々のルジマートフの心情を映し出す鏡のようなものだ。佇まいの、ポーズの一つひとつが何よりも美しく、はかなく、雄弁。戦士の気高さと苦悩するひとりの男の内面の心情が巧まず醸し出される。2日間パートナーを変えての公演となったが、筆者の観た初日はイリーナ・ペレンがニキヤ、シェスタコワがガムザッティ。翌日にはシェスタコワが、ニキヤに扮したということで、また違った趣の舞台になったことだろう。ルジマートフは今回、婚約式の場でのヴァリエーションを踊らなかった(踊れなかった?)。舞台を観た印象では、とくに不調とは思えなかったが、ルジマートフは体力的には限界が迫りつつあるのだろうか。昨年の『海賊』全幕では、ヴァリエーションを他のダンサーに任せて自分は踊らず、ポーズだけみせるという前代未聞ともいえる舞台が少なからず波紋をよんだ。近年、ガラ公演でのパ・ド・ドゥなどでも完成度という点では舞台の出来不出来も激しく目立つようになったのは衆知のとおり。クラシック(特に全幕)はやや厳しくなっているのも事実だ。

しかし、現在のルジマートフには、それを補って余りあるものがある。クラシック・バレエの殿堂・マリインスキー劇場育ちの端正なテクニックと、スラヴ生まれらしい内面に秘めた強い情熱を感じさせる表現に加え、ある種異様にして艶かしいまでの美――まさに蟲惑的という言葉がふさわしい魅力をみせるようになった。『シェヘラザード』の金の奴隷などその最たるものだろう。熱情と禁欲のあいだにゆらぐ奴隷の、禁断の領域に足を踏み入れてしまった畏れと危険な愛に殉じる喜びを、熱い眼差しとともに上半身のラインの持つ艶やかな表情が激しく物語る。

ルジマートフが新たな境地に達しつつあると感じさせられたのが、今回「バレエの美神」でも披露した笠井叡振付『レクイエム』である。笠井は舞踏の創始者土方巽らとともに舞踏史に残る伝説の舞台を創り、その後ドイツに渡りオイリュトミーを研究。還暦を迎える現在ではソロ活動、振付など多彩な活動を行なっている舞踊家振付家だ。04年の初演時は“舞踏”の異才・笠井とのコラボレーションという点で話題をさらったが、“舞踏”という定義自体揺れている現在、舞踏云々よりも笠井独自のメソッドと美学に接することで、ルジマートフは己の表現を見つめ直そうとする点に興味を持った。言霊舞とよばれる、言葉と肉体を分離させることなく自己と向き合うことで心身を解放させる笠井独自の方法論に共鳴する踊り手は内外引きを切らない。しかし、ルジマートフのようなクラシック・バレエを極めに極めた踊り手と笠井の邂逅は意外であった。

『レクイエム』初演の印象は、クラシック・バレエとは対照的な笠井の美学と動きを前にして(笠井自身はバレエの経験も素養もある)、手さぐりしている状態だと感じ、なんとも形容し難かった記憶がある。しかし、ダンスオペラ『UZME』での再度の笠井とコラボレーションを経た今回の舞台を観て、ルジマートフの新たな代表作となるのではないかという思いが強まった。モーツァルトの『ラクリモーサ』と、笠井の自作詩をルジマートフがロシア語で朗読したものが流れるなか、ルジマートフは舞う。そこには、これまで彼の舞台を彩ったダイナミズムやオーラは影を潜めた。あるのは、おだやかな動きのなかから発散される気である。生きとし生きるものが果てなく繰り広げる生命の連環・律動のようなものが熱くもなく醒めることもなく観るものの前に立ち上がってくるのだ。

冒頭で、ルジマートフは選ばれしダンサーであり、求道者だと書いたが、その時々の自分を偽ることなく舞台に反映させる姿勢は、誠実であり、観客に勇気を与える。その点で、すぐれた踊り手である以上に、記憶に残る踊り手ということができよう。本年6月には、ロマノフ王朝末期を揺るがした怪僧をテーマにした『ラスプーチン』を日本でも上演する。ルジマートフの飽くなき挑戦にこれからも目が離せないことだけは確かだ。

(2006年1月5日、28日、2月4日Bunkamuraオーチャードホール)