世界バレエフェスティバル・ガラ



WARLD BALLET FESTIVAL 2006, GALA Performance

公演自体が4時間半、恒例の“おまけ”を含めると5時間半を越える長丁場だが、心地よい疲労感を覚える。

おそらく故障などの原因で、デュポン&ルグリ『ソナチネ』→『椿姫』第二幕のパ・ド・ドゥ、ステパネンコ&メルクーリエフ『タリスマン』→『ライモンダ』とそれぞれA・Bプロと同じ演目になった。また、理由は不明だが、コジョカル&コボー『シンデレラ』がなくなった。予定とは変更になったのは残念。ルグリは当初、アイシュヴァルトと『オネーギン』を踊る予定もあったけれども、それも彼女の故障による欠場で叶わなかった。昨秋、日本での全幕の舞台の感動をいま一度、と期待していたただけに残念。でも、次から次へと充実の舞台が続き、やはり観られて良かった。

なかでも、畢生の名演だと思ったのが、ジル・ロマンの『アダージェット』、フェリ&テューズリーの『ロミオとジュリエット』よりバルコニーのパ・ド・ドゥ。

ロマンの『アダージェット』を観るのは三度目だと思う。椅子ひとつ、それ以外なにもない空間。暗く、冷たい。静謐だ。マーラー交響曲第五番第四楽章が流れるなか、ロマンの、無限の宇宙との対話に、観るものも吸い寄せられ、同化し、言いようのない哀切な想いに胸を充たされる。沈鬱は深いが、決して絶望的ではない。人生における過去・現在・未来への想いが交差し、孤独のなかにも一条の希望の光りを感じさせる。いつまでも失わぬ若々しさと、内に秘めたメランコリーこそ、ロマンが“永遠の青年”たる所以だ。虚空をみつめる彼の視線の先には、いったい何が見えるのだろう。ロマンが日本で『アダージェット』を踊る機会はおそらくもうない。カーテンコールでは、目頭を押さえる観客が大勢みられた。

今回限りでバレエフェスからの引退を表明したフェリ。Bプロ『マノン』沼地のパ・ド・ドゥでは、終幕、“死”そのものを演技ではなく、身をもって示し衝撃をもたらした。フェリの表現の質に関しては、バレエ・ダンサーという枠では語れないと言う人がいるが同感。ガラの『ロミオとジュリエット』でまず驚かされたのが、登場したその瞬間から、少女そのものにみえたこと(メイクの問題などという要素は別にして)。5月の新国立劇場『こうもり』や今回のAプロでの『カルメン』をみた印象では、正直、肉体的、技術的衰えが甚だしい。歌右衛門であれ、大野一雄であれ、イヴリン・ハートであれ、程度の差こそあれ、老いた身体で若い役柄を表現するとき、演技で取り繕うか、舞台で所作を重ねるうちに次第に若く見えて来るというプロセスがあるはず。今回のフェリは、登場の場面で紛れもなく“若さ”を振りまいていた。それだけでも凄いことだと思う。しかし、フェリの真骨頂は、若い恋人たち逢瀬を幸福に謳いあげるだけでなく、その後に起こる悲劇への予兆、死の匂いをそこはかとなしに漂わせたこと。死の想念とでもいったらいいのか、それを体現できるバレリーナは、そう多くはない。ロミオのテューズリーの、マクミランの語法を知悉、さわやかな演技も重なって稀にみる感動的な舞台となった。

そのほかで印象的だった作品を幾つか。

ルテステュ&マルティネス『水に流して』は、ふたりのプライベートの事情からすると意味深なタイトルだが、97年初演のコンテンポラリー。ふたりの掛け合いが楽しく、意想外な動きもあり興味深い(作品自体はそれほどでもないが)。バランキエヴィッチの『レ・ブルジョワ』は前回のバレエフェスの好評を受けての上演。洒脱で味わい深く、客席の反応もすこぶるよい。リアブコ&ウルバンによる『オーパス100―モーリスのために』は、ノイマイヤーがベジャールの生誕70周年を祝い創作したもの。サイモン&ガーファンクルの曲を用いた、男性二人のパ・ド・ドゥである。振付は、上半身の使い方など、ベジャールを意識している。甘美で濃密、それでいて爽やかな後味をのこす佳品だった。

ドヴォロヴェンコ&カレーニョの『くるみ割り人形』は、完成度が抜群。Aプロでは『海賊』、Bプロでは『白鳥の湖』第二幕と、今回このペアがもっとも古典の精髄をみせてくれた。ロホ&ウルレザーガ『エスメラルダ』もいい。ロホは全幕特別プロ『ドン・キホーテ』では本調子ではないようにも見受けられたが、尻上がりに調子を上げてきた。驚異的なバランスに驚かされる。ウルレザーガもこれまで印象に薄い踊り手だったが好演。

コジョカル&コボーの『スターズ・アンド・ストライプス』にも惹かれた。コジョカルの、ラインが美しく、はつらつとした踊りをみているだけで幸せになる。コボーも足技が惚れ惚れするほどすばらしい(Aプロの『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ)でも感じたが、バランシンというよりヴルノンヴィルの使い方に見えてしまうが)。コボーの演技など力が入りまくっていて、少し野暮なところもなくはないが楽しめる舞台だった。

ギエム&ル・リッシュの『白鳥の湖』第二幕は、ある意味、もっとも本公演で注目されていたのではないだろうか。ギエムは現在、『白鳥の湖』を封印している。今回、特別に踊るということで関心が集まった。しかし、ヴァリーションがなく、アダージオからコーダへという、謎の構成だった(時間の問題か、ギエムの意向か知らないが)。結果から言えば、ギエムはやはりギエムだった。一見、クールに踊る。しかし、淡白だとか、情感に乏しいとは思わない。以前、ある人が、ギエムの踊り(特に古典)について賛否あるけれども、あくまで主観の相違に過ぎないと述べていて、全くその通りだと思う。ギエムの抜群の技術と、今が盛りといえる完璧な身体制御によって、言葉は変だけれども、逆に、全く技術を感じさせずプティパの振付が踊られることにやはり驚かされる。Aプロでのコンテンポラリー『TWO』、Bプロでのドラマティックな『椿姫』、そしてガラでの古典『白鳥の湖』と、作品選択の妙とアピールの巧みさは、一頭地を抜いている。

最後に、今回のバレエフェス全体を通して思ったことをいくつか。

さまざまな国の踊り手の演技を一挙に観られることは得難い機会である。ボーダーレス化するバレエ界のなかで、古典にしても踊り方やテクニックの違いや、個性を実感できたのが収穫。中南米やオーストラリア、北米の出身あるいは拠点のバレエ団の踊り手を観られたことは世界のバレエの見取り図を示すことで意義深い。しかし、そのため、出場ダンサー、演目が増え、やや飽和状態にも感じられた。

若い、日本であまり知られていないダンサーを紹介するのは好ましく、大賛成。しかし、百戦錬磨のスターたちと並ぶと、多くの場合見劣りするのも事実。今回の初出場組は、Aプロ、Bプロ、ガラと、国際的スターたちと競演することで、着実に力をつけていったのが感じられた。それを温かく見守るバレエ・ファンもいるが、高額のチケット代を払って、スターの育成の場をみせられても困るという観客が多いのも実際のところだ。要するに、彼らは、スターのなかのスターによる公演がみたいのだろう。でも、それでは、やがてはみずからの首を絞めることになってしまう。スターを見出し、応援し、育てる(下司な言い方ではあるが)のもバレエ愛好者の醍醐味である。前回のように、フォーゲル、バランキエヴィッチ、リアブコらブレイクした踊り手もいるわけであり、“当たり外れ”は致し方ない。

主催者としても、その辺りの折り合いをどうつけるか、苦心のしどころだとは思う。観客からの意見は参考にして欲しいが、衆愚に陥っては、バレエフェスの未来はないのも確か。いずれにせよ既に次回への期待が膨らんでいる。

(2006年8月13日 東京文化会館)