ダンサーを観る楽しみ 作品を見る楽しみ

今にはじまったことではないが、バレエの舞台を鑑賞する際、ダンサーで観るか、作品で観るかというのは人それぞれだといわれる。このところ世界的にスターが不在と嘆かれる。現代作品やコンテンポラリーとなると「振付家の時代」と目され、ダンサーは作品・振付家の後に来る印象がどうしても強い。また、古典作品の上演に関しても主役のスター性・ネームバリューでなく、舞台美術や衣装、照明効果の充実や群舞のスタイルの統一感など総合的な完成度で勝負する時代との考えもある。正直、スターが育ちにくい時代なのかも知れない。とはいえ、たとえば、昨夏の「世界バレエフェスティバル」全幕特別プロ『ドン・キホーテ』に主演したダニール・シムキンの剃刀の上を渡るような派手なテクニックや抜群のスター性に触れ、同時に観客の熱狂ぶりに接したりすると、破格の個性はいつの時代も求められているのだと実感させられたりもする。
また、近年、日本でも相次いで上演されたフレデリック・アシュトン『リーズの結婚』『シルヴィア』、ジョン・クランコ『オネーギン』、ケネス・マクミラン『マノン』『ロミオとジュリエット』、アンドレ・プロコフスキー『アンナ・カレーニナ』『三銃士』、ジョン・ノイマイヤー『椿姫』といった20世紀バレエの巨匠の手によるドラマティック・バレエの傑作群に接すると、その奥深い作品世界や練られた演出・振付に感嘆させられるとともに、あらためて踊り手によって受ける印象が大きく異なることを再認識させられた。マクミランの『マノン』などアレッサンドラ・フェリ、ダーシー・バッセル、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、アリーナ・コジョカル等がタイトル・ロールを踊るのほぼ同時期に観たが、同じ物語、同じ振付を踊りながらかくも解釈や表現が異なるものかと感嘆させられる。
古典作品でも例外ではない。斬新な解釈による現代版の演出は別にしてオーソドックスなバージョンの上演においても、演者によってはありきたりな様式美を超えた、胸をえぐるような切実なドラマとして立ち上がってくるものも少なくない。最近では、タマラ・ロホが主演した『白鳥の湖』の紡ぐ濃密な心理ドラマや上野水香の踊ったラコット版『ラ・シルフィード』の、過去の上演史を覆すような斬新かつ説得力ある演技など、様式や古典の枠組みを超えた現代的な息吹や解釈を感じさせる上演に遭遇した。主役によって作品の色合いどころかドラマの本質すら大きく変わる現象も時には起こる。
個人的には、近現代&創作バレエ、コンテンポラリー&モダンに惹かれ、振付家に興味がいく傾向にあるかと思う。でも、舞踊というものはダンサーが踊らなければ存在せず、作品も成立しないということは常に忘れないようにしている。ダンサーに対するリスペクトを忘れず、同時に、未知なるスターの誕生を願うのがダンス・ファンの仁義であろう。作品の完成度や諸要素のディティールにばかり目が行くと、評論家・実演家や関係者は無論のことシアターゴーアーであってもフツウーの観客目線から乖離してしまう。ダンサーを見る楽しみと作品を見る楽しみ。バランス感覚は誰にとっても必要だ。


Ballet - Maria Kochetkova & Daniil Simkin


Sylvie Guillem Manon First Pdd


Tamara Rojo, Carlos Acosta - Swan Lake