艶やか極まりない法村珠里『ドン・キホーテ』キトリ

「艶やか(あでやか)」という言葉がある。大辞泉を引くと“[形動][文][ナリ]《「あて(貴)やか」の音変化》女性の容姿がなまめかしいさま。美しくて華やかなさま。「―にほほえむ」「―な衣装」[派生] あでやかさ[名]”という意。どうしてここでいきなり持ち出すかというと、少し前になるが、そうと呼ぶしかできない演技に接したからだ。
それは6月に行われた大阪の法村友井バレエ団公演『ドン・キホーテ』全幕においてキトリ役を踊った法村珠里の演技である。珠里は若手プリマの有望株として注目され、抜群の柔軟性と無尽蔵と思われるような豊富なスタミナを有する逸材。身体のラインも映える。そんな珠里であるが、粋でいなせ、開放的なキャラクターが特徴的なキトリ役と相性がいい。日が経つにつれその印象が鮮やかに蘇ってくる。高々と上げられる脚のラインが美しく、跳躍も伸びやかで、背中を反らしたポーズも実に綺麗。そして、おきゃんで愛らしいなかにも、ワディム・ソロマハ演じるバジルとの何気ないやり取りや踊る際のたたずまいに、そこはかとない色香が立ち昇る。踊り・所作の端々が艶やかでいて品がある。ロシア・バレエに通暁した法村牧緒の演出は、マリインスキー劇場版に基づき群舞を一層華やかにしたり、人形劇の場でも人形芝居でなくダンサーが踊るなど踊りの見せ場豊富であるが、珠里はその重厚華麗なる舞踊絵巻の中心に相応しい。
公演後にでた批評記事のなかで舞踊評論の大御所・山野博大が珠里の演技を「あでやか」と評したのに膝を打った。いい得て妙で、珠里の演技をひと言で形容すれば、確かに、そうなると思う。では、その若さに似合わぬ見事なまでの艶やかさは一体どこから来るのだろうか。山野はさらに珠里の祖母に当たる伝説の名花・紫綬褒章受章者の故・友井唯起子を彷彿とさせると述べている。友井は、法村康之とともに1937年創設のバレエ団を発展させ、のちには2代目団長、日本バレエ協会副会長を務めたバレエ界の重鎮。ダンサーとしても歴史に名を残す。バレエ団の初期には『カルメン』『舞姫タイス』といった創作に主演し人気を博するが、なかでも『シェヘラザード』ゾベイダの演技は、写真でみるだけでも肢体の柔らかさや艶かしい色気が伝わって来てゾクっとさせられるほどだ。珠里が友井の血を引くというのも、なるほどそうか、と思わされる。
さて、最後に「艶やか」という言葉とバレエ評について。いまから20年前以上のバレエ雑誌掲載の公演評(なんであったかは失念した)のなかで、ジャーナリスト/編集者の谷孝子が「艶やか」という言葉をつかいつつ、当節バレエ評のなかに見かけることは少なくなったと苦笑してしまった、と記している。戦中から戦後にかけて活躍した洋舞の評論家たちと、谷や前述の山野含め戦後出てきた新世代の評論家では、感性も言語感覚も違ってくるのだろう。その山野が珠里を「あでやか」と評するのだから、おもしろい。いま、現在のバレエの状況を顧みると、プリマたちの演技に濃厚な色香、大輪の華の如きオーラを見出すことが難しい印象も。「艶やか」という言葉が死語というか使われなくなっていったのも必然なのかもしれない。「艶やか」――昔風だがいい響きだ。そういった形容をもっと使いたい。いまのプリマたちの好演に期待しよう。(敬称略)