松田正隆の試み

『海と日傘』『月の岬』といった名作戯曲を書いた劇作家・演出家の松田正隆(長崎出身)率いるマレビトの会では、2009年以降、原爆投下による惨禍に見舞われた長崎・広島という二つの都市をめぐる「ヒロシマナガサキ」シリーズを展開している。先日はその最新作がフェスティバル/トーキョー10の公式プログラムとして発表された。題して『HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会』。
今回は“「ヒロシマナガサキ」をみる視点を国外へと広げる。朝鮮半島における「もう一つのヒロシマ」と呼ばれる町「ハプチョン」に注目し、いまなお、広島での被爆者が数多く住む同地を取り上げることで、「唯一の被爆国・日本」からこぼれ落ちる「異邦性」をめぐる問題に迫る。”(F/T10公式サイトより引用)という試みがなされた。興味深いのが上演形式だ。博物館のような展覧形式と演劇が交差するものだった。池袋は自由学園明日館の講堂が会場。講堂内各所に配置されていたり動いたりするパフォーマーが、ハプチョンと広島でのフィールドワーク・取材で得たさまざまに証言等を証言者に成り代わって観る者に語ったりしていく。広島や長崎でおこったこと、その後に起こっていることをパフォーマーたちの身体を通して受け取るわけだ。その身体展示は同時多発的に各所で行われるので、何を観て何を聞くかは、観る者に委ねられる。観る者も傍観者ではいられない。歴史の重みを否が応にも引き受けなければいけないのである。
「原爆」というテーマは難物だ。ありとあらゆる芸術表現で題材として扱われてきた。「原爆を扱うと評価され易いが、それは芸術評価とは違う」といった旨をとある文学賞の選評で述べたのは筒井康隆だが、原爆をテーマにした芸術作品を評する際「貶してはならない」というようなムードが漂うこともあるのだろう。嫌味な言い方であるが「原爆を扱った芸術作品はすべて名作・秀作」説もあるとかないとか。原爆の惨禍や悲劇は重いものであるし、唯一の被爆国の人間として、そのことに関して問題意識を持つのは大切だ。いや、持つべきだといっていいかもしれない。が、やはりそれを「作品」に取り上げるには細心の注意を払わなければならないだろう。欧米でいえばホロコーストの問題もそうだろう。大上段にテーマをかざしたり、正義面して説教めいたものになったり、お涙頂戴のメロドラマになるのが大概のパターンだ。問題の矮小化につながる。
なにもこれは原爆に限らず環境問題やら社会問題を扱ったりする場合も同様といえる。そういった問題を大仰に正義面して糾弾したり、あるいはとってつけたように扱ったものが、あらゆる芸術表現に散見される。ダンスなんかでも環境問題を扱ったものは無数といっていいほど観てきたが感心させられたものはあまりない。先述したことと重なるが、そういった問題に対して意識を高くして生きることは悪いことではない。しかし、そういった問題を扱って観客にその問題の重さを実感し、共有してもらえるようにするには並大抵の手法では追いつかない。「わたし(創り手)はいかにも〜という問題について深く考えています」といった実感やら想念やら凡庸な主張を生のまま作品で開陳されても引かれるだけだ。その点、松田は、人間の身体というものを媒介に難しい主題を繊細に扱い、観る者の想像力に訴えることに成功した。この公演は今年観た舞台芸術公演のなかでも特筆すべき成果の一つであるように思う。示唆に富む試みだった。
マレビトの会「HIROSHIMA-HAPCHEON:二つの都市をめぐる展覧会」PR映像